「その磯貝彦四郎と申す少年だが――」と明石はふと呟くように言った。「将来、何もなさずに終るかもしれぬな」
その言葉はなぜか勘一の胸に残った。
「影法師」 百田尚樹 講談社
茅島藩八万石の筆頭国家老に抜擢され、二十余年ぶりに江戸から国元に戻った名倉彰蔵は、そこでかつての竹馬の友、磯貝彦四郎が落魄の末に亡くなっていたことを知る。かつては勘一と名乗っていた彰蔵は、父を無礼討ちで失い、貧しさの中で剣と学問に励んでいた。そんな勘一にとって、学問も剣の腕もほかに並ぶものなく、さらには明るく人柄もよい彦四郎は得難い友であった。憧れても憧れても追いつくことのできない友には、どれほど明るい将来が約束されていたことだろうか。しかし、彦四郎はある不始末によって藩を逐電し、落ちぶれたまま死んでしまった。一方、下士の息子にすぎなかった勘一は、とあることをきっかけに藩主に認められ、異例の出世を果たした。いったいなぜ、このようなことになってしまったのか……――。彰蔵は、若き日の己と彦四郎との日々を振り返る。
学問にも剣にもさほど執着を見せないが、いずれも簡単に身につけてしまうことのできる彦四郎。誰よりも秀でていながら、一方では何事にも本気で取り組む様子のない彦四郎を惜しむ声も多くあったが、勘一にとっては、彦四郎は誰よりも光る男だった。そんな勘一に、師匠の明石は、彦四郎には、自分でやりたいことは何もないのでは、という。才能はそれを必要とする者や欲する者に与えられるものばかりではない皮肉を語った師匠は、しかし研鑽を積むことの大切さをも説く。勘一はその言葉を胸に刻んで研鑽を積むが、どうしたって、身分と能力の差は覆りそうにもなかった。
「Box! (ボックス!)」「永遠の0」とはまた違った趣のある百田尚樹の時代小説。さまざまな縛りの中で、自分の夢をかなえようともがく勘一の姿がすがすがしく、さらにかつての輝かしい彦四郎の姿が描かれることで、なぜそんな男が貧困の中で亡くならねばならなかったのかという謎が深まってゆく。
影法師、というタイトルにも深い思いが込められているのだろう。オススメ。
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