毎晩、眠るときに考える。きっと朝になったらわたしは自分の家で目を覚ましていて、すべては元の状態に戻っているだろう、と。
でも、今朝もそうなっていない。
「侍女の物語」マーガレット・アトウッド(斎藤英治訳) 新潮社
ここはいったい、どういう世界なのか。
「わたし」、本当の名前はすでになく、いまは「オブフレッド」と呼ばれる「侍女」。彼女の知ることは限られている。それゆえに、読み手は最初のうち、ほとんど何もわからない世界へと放り出される。彼女には、いまだこの世界がこうなった理由も、全体像すら見えていないからだ。
五週間前に「侍女」としてこの地にきてから、「わたし」には親しく話す相手はいない。そもそも、緑の制服を着た「女中」も、青いドレスを着た「妻」も、赤い制服の「侍女」とは違う存在だ。そしてまた、限られた時間、限られた場所にしか行くことのできない「侍女」同士でさえ、互いを監視しあい、自由に振る舞うことは許されてはいない。買い物に出かけた先で、かつてはジャニンという名前だったオブウォーレンを見かけるが、ことばを交わすことはない。ただ、オブウォーレンが誇らしげに突き出している妊娠した腹に目を向けるだけだ。行動を制限され、自分の思いを隠して過ごす一日。息の詰まる時間の終わり、夜だけは自由。考えることだけは自由。だから、「わたし」は過去へと戻ってゆく。友人のモイラと笑いながらおしゃべりした日々へ。のちの夫となるルークと不倫をしていた時代へ。夫と娘との記憶へ。けれど、夜が明ければまた「侍女」としての生活が始まる。そしてときには、夜もまた「儀式」の時間へと変貌する。
少しずつわかってくるのは、ここがごく少数の権力をもつ男たちによって造りあげられた世界であるということだ。出生率低下の反動から、生殖能力のある女性は「侍女」となり、権力をもつ男、「司令官」の家へと送り込まれる。「司令官」の老いた妻にはもはや子どもを産むことがかなわないからだ。「侍女」は生殖能力のない「妻」の子宮となって、男の精を受ける。よき器たれ、と。望まれるのはただそれだけだ。
少しずつ明らかにされるこの世界のことを、どこまで明かしていいものかと思う。なにせ、最後の最後まで明かされない事実さえあるほどだ。ある意味で非常に衝撃的なのは、閉塞感とやりきれなさのみが積み重なった話が終わり、「『侍女の物語』の歴史的背景に関する注釈」がシンポジウム形式で、ときにユーモラスな事象でもあるかのように語られることかもしれない。それはまた、読み手がどこまで「侍女」の「物語」を理解できたのか、決してできはしないだろう……ということを暗示しているかのようでもある。
逃げ出す女がいる、捕まる女がいる。自ら命を絶つ女もいれば、女たちを教育する立場にまわる女もいる。放射能のあふれる地で、それでもなお自分自身として生きる女もいる。「妻」も「侍女」も「女中」も、それぞれに思いを抱える。
一息に読んだせいもあるかもしれないが、読み終わった日の夜は眠れなかった。
思えば、婚姻によって自分の姓を失い、男の姓を名乗る女性はいまだって多い。それは「ウォーレン」の「侍女」となり「オブウォーレン」と、「フレッド」の「侍女」となり「オブフレッド」と名乗ることとどれほど違うのか。結婚したら子どもを産む、それが当然と思われている場合だってある。「侍女」の世界といまここにある我々の世界と、どこがどれだけ違うのだろう。それは、主人公にまだ名前があったころ、そして世の中が少しずつ歪み始めたころ、夫であるルークが世界の変貌に鈍感だったことからもわかる。男であるルークにとって、女には責任能力が無いとされ、自分の口座を持つことができなくなっても、そのことが意味するところまでは感じることができない。彼自身に危険が迫るまで、男であるルークには男が女を従属させる世界への変化などたいしたことではなかったのだ。――それまでと同じことだから。
そんなことを考えると、今夜もまた眠れないと思う。
就職祝いの2回目配本。それにしても、悪夢にうなされるような本って「祝い」なのか「呪い」なのか……でもまあ、一応この本も「アメリカで4ヶ月間ベストセラー」とかいう話題本ではあるようなのですが。それに確かに読んでいて重みはあったし。
でも次は、できればスカっと明るい話がよろこばしい……こんな女性の閉塞感ばかりを強調したようなものじゃなくって。
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