石橋藤九郎は「奥へ逃れた」と、人々は言った。行き止まりの、三方を高く切り立った岩壁に遮られているはずのそのまた奥に、人によっては入り込めると忠伍は言いかけた。
                 
「神無き月十番目の夜」 飯嶋和一  河出書房新社

 物語は、慶長七年(1602)陰暦十月十三日から始まる。旧御騎馬衆、大藤嘉衛門は何もわからぬままに、小生瀬の村にやってきていた。緊張する役人たちとは裏腹に、村には誰ひとりいない。どの家も人の気配がなく、そのくせ、まだ充分に飲める水や食べられるように設えられた干し魚、米、味噌などが用意されている。十日夜の収穫祭、三日前の十月十日までは確かにここにいたはずの人々はいったいどこへ消えてしまったのか。つのる不安、不穏な気配。そして、周辺に住む村人たちの助けも借りて嘉衛門が見たものは、逃げ場のない場所に散乱する三百余りの遺体だった。ここで何が起き、人々はなぜこのような場所に逃げ込んで死を迎えねばならなかったのか。
 そして物語は、小生瀬村で人々が平穏に暮らしていた時代へと遡る。
 ……重い。屍累々、というだけなら、もっと残酷な小説はあると思うのだが、人々の生活や想いが崩されていく過程や、よかれと思ってしたことが結果的に悲劇を招く状況などが胸に重く残ってしまう。
 小生瀬村を描く過去のひびの中で重要となるのは、少年時代には虫さえ殺せなかったほど繊細なこころを持つ藤九郎である。騎馬衆の家に生まれた藤九郎は村人たちからの信頼も厚く、だからこそ、「検地」が意味することを充分に理解した上で、自らがすべてを背負うことを決意する。しかし、己一人が鬼になることで村人たちを生き延びさせようとした藤九郎の想いは誤解され、特に若者たちを中心とした村人の心は離れていってしまう。だが、役人にとって、あくまでも抵抗の首謀者は藤九郎だ――というところにも悲劇が生じる。やりきれない。
 全体だけでなく、登場人物のひとりひとりが丹念に描かれている。ちょっとしたエピソードではあるが、直次郎の話などはとてもよい(あえて書かないけど)。
 もしあそこでああしていたら、とは思ってもせんないことだけれど。人々の生活が無残に壊されていくさまは、つらい。「始祖鳥記」では、ささやかではあるが成功した抵抗だったのに、あまりにも歯が立たない状況というのは……悲しい。胸になにかを残す作品である。
 okmさんからの就職祝いオススメ本。彼女とはそう深いつきあいではないのだが、わたしにピタリとはまる本をすすめてくれるのは……他大とはいえ同じ「SF研」だから?(苦笑)。



オススメ本リストへ