「殺人は結果なのだ。物語はそのはるか以前から始まっている――ときには何年も前から――数多くの要因とできごとがあって、その結果としてある人物がある日のある時刻にある場所におもむくことになる」
                 
「ゼロ時間へ」アガサ・クリスティー(三川基好訳)

 物語は11月19日、殺人事件のほぼ1年も前から始まる。法律と関わるのある人々が暖炉を囲みながら話している中で、長老とも呼ばれるミスター・トレーヴがおもむろに語る。多くの推理小説は殺人事件が起きるところから始まるが、そうではない、と。殺人事件は結果にすぎず、物事は既に始まっているのだと。そして、すべてがゼロ時間に集約されていく、それこそが殺人事件の真の姿である、と。
 ミスター・トレーヴの言葉どおり、物語の前半は自殺未遂の男、殺人計画を練る何者か、窃盗の疑いをかけられたバトル警視の娘、幸せな新婚夫婦……といった人々の生活が断片的に描かれている。しかし少しずつ時を重ね、海辺のレディ・トレシリアンの館に人々を集めていく。別れた妻と新しい妻のあいだに挟まれた若い男。彼らを見守る古い友人と新しい友人。誰もが何らかの思惑を抱えている。殺されるのは誰で、犯人は誰なのか。ゼロ時間が刻々と迫っている。
 それこそ、ミスター・トレーヴが語るような、最初に殺人事件が起こるというような物語ではない。しかし、人々が綿密に描かれていて、前半部分も決して飽きさせないし、殺人事件が起きてからも、前半部分に書かれていたエピソードがいったいどのように関わってくるのだろう、という楽しみがある。ネタばれになってしまうかもしれないが、宮部みゆき「模倣犯」を思わせるような犯人への自白のさせかたというのも見事であるし、とにかくおもしろいの一言。バトル警視といえば「チムニーズ館の秘密」や「七つの時計」などに出てきていたが、今回はそのとき以上に重要な役割を果たしている。オススメ。



オススメ本リストへ