「じゃあ、世の中には生活に必要なものだけあればいいんですか。そんなことをいったら、文学も音楽も絵も、みんないらなくなってしまうじゃないですか。われわれは何に楽しみを見出すんです?」
「だから、それだけのものなんだよ。無用のものであることに変わりはない」
「美味礼讃」 海老沢泰久 文春文庫
東京ですべての就職試験に失敗し、大阪読売新聞社で働いていた辻静雄は、ある日、取材で行った天王寺割烹学校のひとり娘明子と恋に落ち、結婚した。当初は、サラリーマンの妻になることが夢だったという明子の希望もあって、新聞記者を続けていたが、義父の強い要望から、記者を辞め、料理学校の経営に関わるようになる。だが、すぐに家庭料理を学びにくる主婦たちに物足りなさを感じた辻静雄は、調理師法の改正をきっかけに、天王寺割烹学校を、辻調理師学校として新たなスタートを切る。だが、辻調理師学校で雇ったフランス料理の教師たちが作る料理は、辻静雄がこれまでさまざまな文献で見てきたものとは、まるで違うもののようだった。これは本物のフランス料理じゃないのではないか? いまの日本には、ニセモノのフランス料理しかない……その思いが辻静雄を駆り立て、新聞記者のときにもらっていた月給の20年分、500万円を手に、妻の明子とともに、本物を学ぶためにアメリカとフランスへと飛び立つ。
本物のフランス料理を学びたい。その思いだけで太平洋と大西洋を飛んできた日本人に、アメリカのフランス料理研究家たちも、そしてフランスの料理人たちも、みずからのもてるものすべてを与え、励まし、教育してくれようとする。惜しみない彼らの好意に報いるものを何ひとつ持たない自分には、いつか学校を成功させることしかできない。辻静雄のその思いが、真摯な教育方針となって現れ、そして日本に本物のフランス料理が根付いてゆく。
律儀でいい人からの就職祝いオススメ本。借金をしてでも美味しいものを食べ、本物を極めようとする姿は、ある意味では非常にストイックでもある。本物の料理はどうしても高級なものとなり、本物を極めようとする彼の姿は、ときに要らぬ妬みをも呼ぶ。しかし、真実のところでは、身体を壊すまでに食を極めようとしている彼の心の中には、贅沢をしようとか、自慢しようとかいう思いはかけらもない。むしろ、自分たちがしていることは無用なことだ……腹を満たすだけなら、一杯150円のラーメンでもいいのに、なぜ3万円もする料理を作るのかという思いが、彼の中には拭い去れずに残っている。それでも、それでもいいのだと……どうにもならないのだから、どうにもしないのだと、悩みを残したままに進んでいく在り様は、どんな生き方にも共通するものである。
感動しました。律儀でいい人のオススメ本で泣けるとは思わなかったなあ……(失礼)。
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