「事実をすべてですか」
「はい、すべての事実を」
「では、お引き受けいたしましょう」小男は静かに言った。「そして、いまのお言葉を、あとで後悔されることがないよう祈ります」
            
「アクロイド殺害事件」 アガサ・クリスティ(大久保康雄訳) 創元推理文庫

 読んだことがない人でも内容を知っていてそれなりのことが語れちゃう本、というのはあるもので、文学史の授業で詰め込まれてしまった日本の代表的文学作品のほとんどや、SFでいうと「冷たい方程式」、ミステリーでいうとこの「アクロイド殺害事件」なんてことになるのではないかと思う。あまりにも古典的で、しかもその突飛な(といわれても、現在のわれわれは変形版を多々目にしているので、さほど突飛には思わないのだが)アイデアが先行して知られているために、逆にちゃんと読んでいる人は少ないのではなかろうか――と、ふと思い立って、ここでオススメ文を書くことにする(そのうち「冷たい方程式」も書こう)。
 とある小さな村の医師、ジェイムズ・シェパードの手記の形で物語は語られる。数年前に夫を殺害した噂のあるファラーズ夫人が睡眠剤を多量に服用して死んでいるのが発見された。自殺か、他殺か。それが不明なままに、続いてファラーズ夫人と婚約するのではと噂のあった名士アクロイド氏が探険で刺殺されてしまった。怪しい人物たち、そして鉄壁のアリバイ。シェパード医師の隣に引っ越してきた引退した理髪師――だと思っていた小男、エルキュール・ポワロ名探偵が事件にかかわり、事件は動き始める。
 クリスティというのは人をあっと驚かせるためなら何でもやる人で、アクロイドもそうだが、ポワロ最後の事件「カーテン」なんてのは、おいおいそこまでやるか!(これまた有名な話なので、ミステリ好きなら読んだことはなくても知っていると思うが)と叫んでしまうほどなのである。そういうわけで……この作品を読んで、なんだか古くさいなあとか、このネタで○○が××で使ってたじゃん、とか思ってはいけない。クリスティ女史がほぼ最初であることに敬意を表して、読んでいただきたい。



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