戯れに中山可穂と「純愛小説」について語ってみる(「弱法師」ネタバレあり?)
別名戯れに語るコアなファンが求める中山可穂作品(苦笑)
中山可穂は「弱法師」の「作者からのメッセージ」の中で、「十冊目にして初めて、わたしは純愛小説というものを書いたのかもしれません」と書いている。
「かなわぬ恋」こそが純愛なのだろうか。わたしはこの本をとても好きだし、この物語たちのこともとても好きだけれど――いままでの可穂さまの小説の、坂道を転げ落ちることがわかっていて頂上にのぼりつめちゃう恋、が好きだったんだよなあ……と呟いてみたりもしたのだった。これまでの作品も多くが最終的には「かなわぬ恋」ではあったのだが、それはなんといっても破滅型の恋で、わたしの知人などは、どうしてあの人たちは崖から飛び降りるような恋愛しか出来なのか、と嘆じたりもしていたほどだ。しかし、破滅の中に幸福があったし、なにより頂上があった。いつか壊れるかもしれない、とわかっていても恋に飛び込んでいく勇気が。
この作品集の登場人物たちは、坂道を目の前にして立ちすくみ、のぼることさえ諦めて、その諦念を昇華させようとしている。わたしには、そんな風に思えた。そして、思ってしまったのだ。その諦念を純愛と呼ぶのだろうか、と。
「弱法師」の鷹之は、たしかに破滅の中に幸福を見つける。彼はエリート医師としての名声や金、妻、家、それらをすべて捨て、朔也のためにだけ尽くす生活へとのめりこんでゆく。静かな森の中での生活は、まるでおとぎ話といってもいいほどだ。だが彼の幸福のかたちはすなおじゃない。もっと朔也に溺れちゃうなら話は別だったのかもしれないのだが、なんだかんだいって女性の影がつねにちらほら(笑)。ただし、壊れ方は激しいので、恋に対する勇気がない、とはいえないところが難しい部分。まあいうなれば、彼は坂道があることを知っていて、のぼりつめはしないんだけど、気づいたら立っていたところが頂上付近で、気づいたと同時に転がり落ちた、みたいな(すごい喩えでごめんなさい)。
ちなみに、ここで改めて書いておくことにするが、わたしが「中山可穂ってJUNEだよねー」といっていたことは、たぶん以前、どこかに書いた。この作品を読んだ人のどれだけが、その確信が間違っていなかったことを確認してくれるのだろうか。ねえ、芳谷さん、みなとセンセ?(名指し)。とにかく、この作品はこれだけですでになんていうか純然たるJUNE。ボーイズラブなどという明るく能天気なジャンルではなく、JUNEとはこういうものだ、と中島梓が論じ、一部のJUNE作家たちが継承しようとしつつも、BLに侵食され、失われつつある「聖域」にこそおかれるべき作品。に、近いと、わたしはつくづく思ってしまったものである。わたしはJUNEに思い入れはないし(ないんです←苦笑)、可穂さまの作品をあの世界の人々にあげようとは思わないが、おそらくこれを読んだら、二十代半ばから後半以上で、かつての真性JUNEにはまったひとはたまらんだろうなあ……と思ったりしてしてしまう。
ただし、それゆえに、いってみれば女性同士の恋愛を描く、ということで特化されていた可穂さまの存在が、ぐるっと回転して着地してみたら、他の人たちがたくさん遊んだ跡地だった、といえないこともない残念なことになっている。でもこれって鷹之と朔也の恋物語だけじゃなくて、朔也には未央が、なんて思った人はまだJUNEに対する認識が甘い。このあたりに少女が存在するのがまた、王道JUNEの定番なのである。
と、思わず否定要素ばかり書いてしまったが、いまはともかくかつてJUNE黄金時代にはまっていた身としては、わくわく楽しめたことは告白しておこう。でも、可穂さまでこの手の作品が他にも出たら……読むかしら。わかりません。
(ま、だからといって、これが女医とシングルマザーと少年、とか、女医とシングルマザーと少女、女医とシングルファザーと少女、などという違う組み合わせだったらどうかと考えると、今回のパターンで正しかったとは思うのですが)(いま思いつきましたが、男性医とシングルファザーと少年、っていう組み合わせも……いやいや、それではあまりにもえげつない)
(あ。さらにいま思いつきましたが、医者(鷹之)とシングルマザーと少女、という組み合わせもあるはずですよね。だとしたら……? うーん)
それはさておき。わたし自身は、最終的にはこの話はむしろ朔也と未央の純愛ものなのだろうと受けとめた。それも間違いではないのだろう。この中にはいくつものかなわぬ恋のかたち、美しすぎてそれゆえに壊れてゆく恋の姿があるのだから。けれど、あえていってしまう。これだけいろんな恋のかたちが書かれているにも関わらず、やはり、なにかこう――いままでの中山可穂作品にあった激しさや痛々しさ、鋭さのようなものが欠けているようだ、と。
ただし、その分、ふつうの読者には受け入れられるだろう――とは思う。そして女性読者層の幅が広がるだろうなあ、とも。世の中には女性同士の恋愛小説を読む気にはなれなくても、男女、男同士、それなら読む、という女性たちが数多くいるのだから。ということで、いままで中山可穂作品を忌避していた人々、わたしのオススメ文を読んで、そんな思い入れのあるような作品、かえって読めない…なんて思っていた人々にもススメやすい本ができた、と明るい面を見るべきか。
なお、実は2004年3月23日付読売新聞夕刊に「弱法師」の書評が載っていた。
「蜜のような色香で義父をとりこにする母への嫉妬を性に芽生えたばかりの少年に抱かせてしまう。病魔に蝕まれた上、義父への同性愛の苦悩に突き落とすのは残酷にも見える。(中略)秀逸なのは、少年の悲しみが、義父をいたわる澄み切った心境へと変化していくことだ(佐藤憲一記者)」
これを読んだとき、わたしは軽い衝撃を受けてしまった。
実はわたしにとって、朔也は鷹之を惑わす魔性の少年(苦笑)だったのだ。朔也の邪気のない戯れが鷹之を惑わし同性愛の苦悩に突き落としていたのであって、しかも実は朔也のほうは計算づくだったんじゃないか……とか。これが男性と女性の読みの違いか、それともJUNEだという思い込みがわたしに誤読させたのか。
改めて再読すべきかもしれない。
恋愛を坂道にたとえるのはもうやめるが(って、いきなりやめてしまってどうする)、「卒塔婆小町」に至っては、最初から逃げている。これは破滅を恐れるあまりに恋愛から逃げる女と、それを追いながらも、失うことを怖れるあまりに手出しの出来ない男とが、見つめあったまま動けない状況を描いた作品だ。かなうことのない恋のために身を削って原稿を書き続ける彼と、そんな彼を痛ましく思いながらも、決して彼を愛することの出来ない彼女。三篇中、この作品がいちばん、なんというか「かなわぬ恋」の部分が痛々しい。彼らは歳の差こそあれ若い男と女で、決して嫌いあっているわけでもないからだ。だが彼女は男性を、というよりも人間を愛することの出来ない女で、そんな女のために百本の小説を捧げることを誓った男は、はじめからわかっていたはずなのに「かなわぬ」ことに心身をすり減らせてゆく。
読んだ人にはおわかりと思うが、これはもう、読んでいて心が痛む。女の側も自分の冷たさを自覚しているし、愛せない自分を是としているわけでは決してないので、ひしひしとつらい。――と、せつなくってつらいんだけど、わたしにはここで、塁や絢彦のように、強引に迫ってくる存在のほうが――必要だ。あえて「必要」と書く。わたしが中山可穂作品に求めているもの、わたしが必要としているものは……と。
恋はいつか必ず終わる。
それがわかっていて、それでもなお手を伸ばし、追いかけ、やみくもに自分のものにしようとするのがいままでの中山可穂作品ではなかったか。
たとえば「マラケシュ心中」にはこんな会話があった。泉に傾倒しつつある絢彦に、彼女らしくない、という糸子さんの台詞。
「プラトニック・ラブはいかがわしい、セックスを伴わない恋愛はニセモノだっていうのがあなたの持論でしょう。肉体以外は何も信じるなって歌うのが、あなたの短歌だったんじゃないの?」
そして、絢彦から泉へのメール。
「一生涯、親友でいるより、十日間でいいから、わたしはあなたと恋人同士になりたかった。その十日間が得られなかったわたしの人生は、ただひたすらな闇であります」
今回の物語たちは、ひたすらな闇を描いた作品だ。それはせつないけれど、でも、それって「いかがわしい」ものなんじゃなかったの? もしふたたび闇に戻るのだとしても、一瞬の光、光に鋭く切り裂かれた瞬間をこそ求めていたんじゃないの?
純愛ってなんだろう。
わたしはいままでの中山可穂作品のことを稀にみる純愛小説だと思っていた。けれど、今回の作品や作者の言葉を読んでから、改めてこれまでの作品を再読したりしてみると、もしかすると、作者の中では手も触れあわない、目だけで、言葉だけで愛を交わすことが純愛だ――とされているようにも感じられてしまう。そうなんだろうか。これじゃあ、一時期の栗本薫がSMこそ純愛、と極端に突っ走ったのと同じだ。そんな風に単純に割り切れないところにこそ、可穂さまの作品の美しさがあったように思うのに。
とはいえ――わかっていますとも。いわゆる「純愛」とされているものが、愛しあっているのに障害がある恋愛のことなんだ、なんてことは。
物理的なものであれ感情的なものであれ、互いに愛しあいながらもそれをすなおに表現できずに苦しみ、思いがけず傷つけあいすれ違ってしまう恋愛が描かれたとき、大抵それは「純愛」と呼ばれているように思う。JUNE愛が純愛であるのは、同性愛という葛藤があいだに挟まるからであり、SMが純愛だったのは、よくわたしが例にあげることだが「魔界水滸伝」のたーさんと涼くんあたりを読めばわかることである。己の愛情を相手に伝える術を知らず、傷つけることでしか表現できないってことで(思い出すと、ほんとに「SMって純愛なんだなあ」と思っていた時期がありました、わたし……←ばか。でもたーさんが好きだったんですもの)。今回の中山可穂いわくの純愛も、そういうことなのだろう。手もふれあわず、思いだけがつのり、ときに己ばかりではなく相手をも傷つけてしまう。
……でもね。
わたしは、いままで「純愛」とされていた、そういう障害のある、見つめあうだけの恋愛じゃなくって、一歩間違えれば性愛小説になりかねない物語の中にある恋愛の激しさや苦しさを描いたところに、「中山可穂作品における純愛」があるのだと思っていた。
著者である可穂さまはそんな風に思われることを是とはしないかもしれないけれど、わたしや、わたしの知る何人かのファンにとって、可穂さまの作品は、流行の言葉でいえば「癒し系」文学である。読むことで救われる、読むことで、どこか癒された気持ちになれる。けれど残念ながら、そういう意味では今回のこの作品はせつなさや痛々しさという面では可穂さまらしいのだけれど、わたしは癒されなかった。なぜなら、片想いに苦しんだ記憶のある人が読めば、癒されずに過去の記憶に苦しめられるような作品なのだもの、この話は。現実はタイミングやささいなすれ違いや、つまらぬ出来事の積み重ねが、ありえたかもしれない未来を否定して「かなわぬ恋」となってゆくことのほうが多いだろう。だからこそ、塁や絢彦やカイや理緒。そういった、追いかけてくれる人、待ちつづけてくれる人の存在が癒されるものだったのに。世にはびこる「純愛」を、そんなのはいかがわしい、と切り捨ててくれるところに、自分にはないものを見て羨ましくもあり、勇気を与えてくれるようにも思ったのに。
「卒塔婆小町」は純愛なのかもしれない。わたしはこの話がとてもよくわかる。でも、わかるからこそきらいだ、といってしまおう。わたしにとっては痛すぎる、と。だから……これを「純愛」だとは思いたくない、と。なぜなら、「純愛」しているわたしを、わたしはきらいだから。
「浮舟」は、かなわぬ恋をする大人たちを、娘である碧生という少女の視点から見せているところがうまい。優しい、といいかえてもいいかもしれない。碧生というフィルターを通すことで、彼女の若さに救われ、力強く前向きに生きる姿が見えてくるからだ。この作品もいうなれば、かなわぬ恋から逃げつづけた薫子の物語、もしくはかなわぬ恋のために逃げることを選び、ついに逃れることに成功した文音の物語である。追うものが、いない(香丞が追ったといえば追ったことになるのか……)。ただし、この作品には救いを感じる。なぜなら、碧生が生きて、そして薫子のような、母、文音のような、そして父、香丞のような、そんな恋をしようと思っているからだ。これから生きてゆく少女が彼らの恋を否定しない限り、その恋は終わってしまったものではなくて、かなわかったけれど、まだ続いている。非論理的ではあるけれど、そんな風に感じられる。
しかも、薫子は坂道をのぼりつめるような頂上の見える恋はあきらめたかもしれないけれど、恋心をあきらめたわけでは決してない。かなわないことを知りつつ、せつない想いを胸に秘めつつ、愛する人の傍にいる。三篇の作品の中で、いちばん痛々しくって哀しい片想いとは、薫子の恋ではないだろうか。それでも、そんな薫子の恋を知りつつ、三人のかたちを作りあげていく文音と香丞がいい。笑顔の中にたくさんのものを隠して、穏やかな日常の中に棘のあることから目を背けて、大切に大切に静かな空間を織り上げてゆく生活。そのあたたかさ。くり返すが、それを碧生という少女が眺め、その穏やかな優しさも哀しみも破綻さえも碧生が受けとめてゆくところに、この作品の素晴らしさがある。ここにきてようやく癒された――といってもいい(笑)。
つれづれに書いているうちに思いついたことがあったので、ついでに書いてしまおう。
こんなにだらだらと、読みやすく段落のスペースを空けることもなく書き綴ったものを誰が読んでいるかわからないが(おつかれさまです)。
「猫背の王子」「天使の骨」のミチルさんとトオルの関係は、たしかに「純愛」だと思っている。だが、あの小説のよさは、トオルの気持ちに気づきながらも他の女性との恋愛を繰り返すミチルの側から書かれたところだったと思う。あからさまにされなかった恋をそこはかとなく感じる読者の歓び、とでもいおうか。
それでいうと、今回の「弱法師」に収められた小説は、トオルの側から描かれた作品だったのだなあ…と思いついた。だからなんだ、といわれると困るんだけれど。まあ、あえていうなら、世の中にはミチルさんは滅多にいないけど「トオル」はたくさんいて、トオルたちにはトオル側から書かれた純愛小説は痛くって読みづらい、ってことだろうか。
それでももちろん、そういうことを語るためにも読んでみてよ! とオススメしてしまうのが、可穂さまファンのワタクシとしては当然のことなのですけれどね。
(というか、今回、なんだかんだいって語ってます、ワタシ。ちょっと反省)
それほどたくさんいろんな人の作品を読んでいるわけではないけれど、少なくともいま、わたしが知る限りの現存している日本の作家で、可穂さまほど日本語の美しい人はいないと思っている。それは正しい日本語を使っているとか、単に語彙が豊富だとかそういうことではない。
選び抜かれた言葉と、その組み合わせの妙。間合いのよい台詞のやりとり、こぼれ落ちる珠玉のひとこと。ことばの神を愛し、ことばの神に愛された人がここにいる。
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