「毎晩出かけよう」と彼は心に決めた。「あの曲乗りの男が頭蓋を破るまで見に行こう」
                        
 「或る精神異常者」(「夜鳥」所収)
                         モーリス・ルヴェル 田中早苗訳 創元推理文庫


 さまざまな道楽をやり尽くしてしまい、何事にも溌剌たる興味を感じなくなってしまった男の唯一つの楽しみは、思いもかけぬときに突然沸きおこる惨事、或は何か新奇な事変から生ずる溌剌たる、そして尖鋭な悩みそのものであった。彼は芝居や見世物に、火事や猛獣に食われる猛獣使い……そんなものを見る偶然を楽しみに出かけている。そんな或る日、自転車乗りのポスターを見た彼は、その曲芸を観に出かけ、誓うのだ。曲乗りの男がいつか落ちるその日まで観にいこう、と。そして実際、彼はいつも同じ席を買い占め、高い料金を出して毎日同じ曲芸を観にいった。その恐るべき結末とは。
 短篇作家ルヴェルの真髄が読める作品、とうたわれているのだが、まさしくそのとおり。なにしろオチがすごい。つねに金持ちになることに憧れていた乞食が、ふと出会った盲目の乞食小銭を恵んでやったことから、金持ちの旦那に間違われる。そのまま金持ちのようにふるまって優しく接してやった乞食の胸の中にわきあがる幸福感。この結末の切り取り方も、見事だ。
 「新青年」に掲載され、江戸川乱歩や夢野久作の賛辞を受けた作品群だが、だからといって古いなんてことはないと思う。それはもちろん、小道具や設定が、いまとは異なるところがあるだろう。けれど、そこに流れる人間の情や、恐怖感や哀切は同じだと思われる。
 個人的には「ふみたば」の洒落たオチが好き。ただ、書き方次第ではネタバレになるなと思ったので、あえてここにはあげなかった。それはぜひ手にとってご覧いただきたい。



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