さびしい、いいえ、悲しい、いえいえもっと、つらい苦しい、自分で自分をつねるよりははるかに痛いのです、生まれてはじめて人を好きになったのに、あたしはがんじがらめ、身動きできないのです。
            
 「菊亭八百善の人々」 宮尾登美子  中公文庫

 深川木場育ちの汀子はのんき者のオプチミスト、つらいことや悲しいことの記憶はなく、いいことばかり。粋といなせを両肩に背負ったような川並の持つ雰囲気、ご祭礼の胸のはずむような楽しさ、そんなものが汀子を作り上げている。そんな汀子が兄と、兄の嫁となった真佐代の勧めで、江戸時代から続く料理屋八百善を継ぐことになる福二郎のもとに嫁ぐことになる。胸の弾むような恋をしたわけでなく、ただ断る理由もなかったからだが、歴史ある料理屋八百膳もいまや風前の灯火。支えるべき財力がないのにかつての栄光の日々だけを追う人々の中、汀子は持ち前の明るさでなんとかそれを乗り切ろうとするが、困難につぐ困難が彼女を襲う。使用人の裏切り、福二郎の浮気。それでも、汀子を支えたのは、やはり八百膳が持つ歴史の素晴らしさであり、どんな折にも志を曲げずに「八百善の料理」をつくろうと心を砕く料理人、小鈴の存在だった。しかし、ついに小鈴までもが……――
 宮尾登美子自身が、汀子はいままでのヒロインとは違う、と書いている。峻烈な美しさをもつヒロインというよりは、のん気ものであっさりさっぱりした気性の汀子は確かにいままでの宮尾作品とは一味も二味も異なっている。とはいえ、逆にいえばそういうヒロインだからこそさらりと読めておもしろい。八百善といえば最高級の素材を用いて最高級の料理をとんでもない値段で出していた料理屋である。その自負が、落ち目になっても続いてしまう。そんな家族の中、嫁いできたただひとりの他者として立ちむかわねばならない汀子の姿がすがすがしい。そしてまた、料理、華、掛け軸。説明口調ではなく語られるそれらが物語の中できらきらとしていて、実に興味をひかされる。上下巻二冊があっというまに感じられる作品である。



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