「君、僕は正直な事を云うが、――」
と、暫く立ってから私が云った。
「僕は君等にそんな心配をかけさせる程の人間じゃないんだよ」
「私」谷崎潤一郎(潤一郎ラビリンス[ 犯罪小説集/千葉俊二編) 中公文庫
「私」が一高の寄宿寮に居た当時の話である。同室生たちが他愛のないおしゃべりをしている最中、ふと、話は「われわれが犯しそうな犯罪」ということになる。そして某博士の息子樋口などは、殺人を犯すことはあっても泥坊だけはない、という。彼は品の好い顔を曇らせて、ぬすっとというのは人種が違うからなあ、などと呟くのである。だがその頃、寮内では頻繁に盗みが発生していた。しかもどうやら泥坊は外の者ではなく、寮生に違いない――そして、「私」とあまり仲のよくない平田という男が、いやな顔をして「私」を見た。自分が疑われている――この思いがもたらす不安感と、孤独、そしてどこか奇妙な犯罪者めいた気持ち。何という厭な、と思いつつ、犯罪の嫌疑を否定することが自分にとってよいのか悪いのかの判断すらおぼつかなくなる。そしていつしか、犯人の心持さえわかるような気がしてきてしまうのである。いったい真犯人は誰なのか――
「犯罪小説集」となっているが、決して「推理小説集」ではない。ゆえに読みながら犯人や犯罪の真相を推理してゆく作品ではなく、「前科者」「或る調書の一節」のように、犯罪者がなにゆえに犯罪を犯してしまったのかを告白してゆくような話、もしくはホラーともつかぬおどろおどろしい感覚だけを強調した「柳湯の事件」などが収められている。だが、その中においてほぼ唯一の犯人探し小説「私」は、なんというか――見事である。このトリックは、のちの作家たちも多く使用している方法だが、谷崎の文体でやられると、奇妙に歪んでいて余計に惑わされること間違いない。
罪を暴くことよりも、犯罪者の、犯罪を犯す心理にぴたりと寄り添ったような作品集。谷崎潤一郎の作品は中公文庫から「潤一郎ラビリンス」としてまとめられているので、この短編集ではなくても、ぜひ一度、どれか一冊、手にとって読んでいただきたいと思う。できれば……文学史に太字で載っているような長篇や初期短篇にこだわらず。きっと、思いもかけない新鮮なおもしろさが得られるだろう。
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