「じゃあ」
 あの頃と同じ挨拶をリッツァは口にした。毎日、逢っていたころと同じ挨拶。普通、またすぐに逢える者同士が交わす挨拶。
          
 「リッツァの夢見た青空」(「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」所収)米原万里 角川文庫

 1960年から1964年までの約5年間、「私」、マリは在プラハ・ソビエト学校に通っていた。そこには個性的でユニークな同級生や先生たちが多くいたが、中でも仲良くしていたのは、ギリシア人のリッツァ、ルーマニア人のアーニャ、ユーゴスラビア人のヤスミンカの三人。耳年増で、マリが思わず赤面してしまうようなことをしょっちゅう口にしているリッツァ、なぜ嘘をつくのかわからないようなことまで嘘をつくアーニャ。そしてとりすました優等生のように見えながら、実は心の奥底にマリと通じる孤独を抱いていたヤスミンカ。東欧の共産党政権が軒並み倒れ、ソ連が崩壊するという激動の時代を経て、マリはかつての同級生たちに会いたくてたまらなくなり、プラハや、その他の東欧、中欧諸国を旅するようになる。そして、ようやく出会えたかつての友人たちが語る、激動の少女時代とは。
 米原万里のノンフィクション。プラハ・ソビエト学校という、共産圏のさまざまな国からやってくる生徒たちがいる環境だからなのか、マリの視線や考え方は、おそらく同年代の日本人の少女よりも広くて深い。万民の平等を説く人々が高級マンションに暮らし、使用人を使っていることにひっかかりを覚え、そのことに無自覚である友人や、その両親に対してもわだかまりを覚えてしまう。日本と諸国との関係を悩み、同級生たちの愛国心に圧倒され、自分自身や友人たちのアイデンティティを思う。だがそれがもっとも表面化するのは、マリがもっともっと大人になってからだ。
 3人の友人はそれぞれに個性的だが、なかでも数学が苦手で、落第ぎりぎりなのにあっけらかんとしているリッツァの明るさがいい。大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。オススメ。



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