雨がやんだ。わたしはのろのろと身を起こす。爪が伸びている。
              
「深爪」 中山可穂  新潮文庫

 どうかわたしをこわがらないでください。あなたを壊さないように、あなたの家庭を壊さないように、そっとあなたを愛します。
 なつめから吹雪への最初のメールにはそう書いてあった。しかし、吹雪と知りあえば知りあいほどに、なつめは彼女のすべてを手に入れたくなり、ふたりは諍いと和解を繰り返す。吹雪は信じられないほどにどこかあっけらかんとして、なつめのことを自分の夫にまで紹介するが、夫に嫉妬されない自分の存在になつめはかえって苦しさのようなものをおぼえてしまう。だが、吹雪とはどうしても別れられない。そう思っていたのに、何度めかの激しい諍いと別れは本物だった。しかも一か月半後、吹雪の夫からの電話で、なつめは吹雪が新しい恋人と家を出たことを知る。なつめのためには家を捨てられなかった吹雪が、新しい恋人のためにはすべてを捨てたのだ――
 少しずつ重なった三つの物語。なつめからみた、なつめと吹雪の恋、そして吹雪の夫。吹雪からみた、なつめとの恋と夫、そして新しい恋。夫、マツキヨからみた、吹雪の恋と家庭。
 マツキヨが、いい。これまで中山可穂の小説に出てきた男の中では、「七夕」(花伽藍所収)の孝太郎さんとタイ張るくらいに、いい。なつめ自身が、このように書いている。
 あるいは吹雪は彼のこんなに深い人間的魅力に触れることなく去ったのではないか。彼自身にとっても、こういう事態になって初めて自分という人間のはかりしれなさを発見したのではなかったか。
 
この人のはかりしれなさ、人間的魅力は読んでもらうとして(書いてしまうと激しいネタばれになるので)、それまでは、女同士の恋愛を理解できず、メルヘンの世界の話だと思って聞き流していた夫が、突然の妻の家出と、交際相手がやってきて土下座して妻と子どもをくれ、などという場面に出会ったとき……幼い子どもを守るために必死になる姿は痛々しいが、どこか優しくて清らかだ。その生活の中で彼が変わっていく、その心の動きも、また。
 妻を女に寝取られた夫の側から見た話、というだけでなく、マツキヨの生き方に出会うことだけでも、この本の価値はあるような気がする。女同士の恋愛の息苦しさはさほど感じられないので、初心者むけ中山可穂作品といっていいかもしれない。



オススメ本リストへ
こっそり中山可穂トップへ