「どうしても行く」キムが言った。「いますぐにだ。誰にも止めさせるものか!」
              
 「トキシン―毒素―」 ロビン・クック(林克己訳)早川書房

 プロローグは灰色の風景で始まる。鉛色の空の下、無口な農夫たちが病気の牛を売り払う場面は、のろのろと重苦しいものの、ほとんど緊迫感はない。しかし、たった50ドルのために病気の牛を誤魔化して売る農夫たちによって、思いもかけない事件が引き起こされる。
 有能な心臓外科医であるキム・レッジスは、大手保険会社をオーナーとして合併した総合病院に勤務する医師。離婚した妻との折り合いは悪いが、スケート選手としても将来有望な娘のことはとても可愛がり、病院でのストレスなども、娘によって癒されている。ところが、生焼けのハンバーガーを食べたことがきっかけで、愛娘ベッキーの具合がどんどんとおかしくなる。当初は腹痛を軽く見ていた彼だが、激しい下血に慌てる元妻に急き立てられ、娘を救急室に連れて行く。しかしそこで見たものは、マニュルどおりにしか動かず、コストのことしか考えないという、まるで人間味のない、病院の対応の悪さだった。苛立つキム夫妻。初期対応の悪さもあり、ベッキーの具合はどんどん悪くなっていく。しかもそれが病原性大腸菌O157だとわかったときには、ベッキーは数々の合併症を起こして意識不明に。医者ではあるが、娘に対しては何も出来ないというもどかしさから、キムは孤独な戦いに立ちあがる。それは、娘が口にした肉が、どこからもたらされたのかを突き止めることだった。
 有能な医師であるがために、ある意味では自己中心的で自信満々な男、それがキムだ。その彼が、娘に対しては何もしてやれないというもどかしさから立ち上がるのだが……このキムの性格ゆえに、自分の信じるところを訴えても変人扱いされ、誰もまともに受けとめてもらえないという、やりきれない思いが人一倍強く描かれている。読みすすむにつれてキムに同調してしまうと、世の中のすべての理不尽に対して頭にくること間違いない。そういう意味では、非常に精神衛生上よろしくない本かもしれない。どうして、なぜ、誰も自分のいうことを信じてくれないのか。悔しさに涙を流すキムの姿がたまらなく迫ってくる。そして……エピローグの衝撃。たぶん、しばらくはハンバーガーを食べないと思います、わたし。



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