できることならいい出来事を思い出したい。でも、いい出来事をまったく思い出せません。思い出すのはいつからのこと? 一九三九年、避難のときから。すると、たった四年しか過ぎていない。時間がたつのはなんて遅いの、百年くらいはたっているはずなのに。
             「鳥のいない空:シンドラーに救われた少女」 ステラ・ミュラーマデイ(田子歓也訳) 幻戯書房


 ポーランド南部クラクフに生まれた「わたし」ステラは、我の強い、ちょっとわがままな女の子。四歳上の兄アダムはおとなしくていい子なのに、ステラは強情でうるさい、としょっちゅういわれるような子だった。そして、戦争がはじまり、ユダヤ人であるというだけで家を取りあげられた一家はゲットーで暮らすこととなる。それでも、ドイツに生まれて金髪に青い目をした母の祖父母と有名な建築家である伯父は完全なユダヤ人とはみなされずにゲットーの外に住むことを許され、さらには、いやいやながらではあっても父がOD(ゲットーの中で、ユダヤ人を取り締まるユダヤ人の組織)の隊員となったために、当初、ステラたち家族の暮らしは不自由ではあっても、それほど逼迫したものではなかった。だが戦争はますます激しくなり、一家は収容所に送られてしまう。汚い上に吹きさらしのトイレ、シラミだらけの毎日、ごく少量でまずい食事。母の強い主張で、年齢をごまかして子どもたちのための収容所ではなく女性たちと一緒に暮らすステラにとって、毎日の仕事も苦痛でしかない。だが、ある日、子どもたちは一か所に集められ、そのままどこかへ連れ去られてしまった。つねに死と隣り合わせであることのストレス。そんな中、ドイツ人でナチスにも顔の利くシンドラーという人物が、ひそかにユダヤ人を助けているという噂が流れるが……――
 ごくふつうの少女の身に降りかかった最悪の出来事。極限生活の中で字を忘れ、おぼえたはずのことも思い出せなくなり、自分の年齢さえもあやふやになってしまう。飢えと痛みと、なにもかもが耐えがたく、わがままなことを口にして叱られ、強かったはずの母が見せる弱さに怯えてしまう。
 シンドラーの噂を信じるのか、信じないのか。一歩足を踏み出すことで、死につながるのか生につながるのか、選ぶことになるのだ。だからこそ、筆者はいう。生き残れたのは偶然にすぎない、と。
 戦前から収容所生活、そして戦後までを描いた作品。



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