「ジェイスン・タヴァナーは存在しません」
       
「流れよわが涙、と警官は言った」 フィリップ・K・ディック(友枝康子訳) ハヤカワ

 もし、ある朝見知らぬところで目覚め、連絡をとった友人すべてに、おまえなんか知らない、といわれてしまったら。これは、そんな不条理な世界を描いた物語である。
 毎週火曜日、一時間者の音楽とバラエティの番組を担当しているジェイスン・タヴァナー。「ジェイスン・タヴァナー・ショー」は年間第二位の視聴率をかせぎ、三千人のファンから愛されている。ところが、思いがけないことから意識不明の重態に陥ったジェイスンは、次には見知らぬ不潔な部屋で目覚め、しかも自分が自分である、ということを、だれに対しても証明することが出来ない。有名人であるはずの彼をまったく知らない人々。消えてしまった記録。身分証明書の再発行も出来ず、友人や恋人からも冷たくあしらわれてしまうその世界で、彼は生き延びることができるのだろうか。
 追う側の警官にとっても、タヴァナーは不安な存在だ。出生証明書の発行記録がない。指紋、声紋、足紋、EEG波型、すべてが地球上のどのデータ・バンクにもない。かれはそこにいる、しかし、彼は存在しないのだ。追う側と追われる側が交錯したとき、物語はまた新たな展開を見せる。
 いかにもディック、という作品であるが、にしてもすごい題。SFにはけっこう強烈な題が多いと思っているのだが、これはその中でも五本の指に入るだろう。原題もそのまま「Flow my tears, the policeman said」。洋書のディック作品集はどうやら新しく表紙を全部統一したのか、なかなか斬新な色づかいの綺麗な本である。機会があれば、一度それも見てもらいたい。

 それにしても、ディック原作の映画「マイノリティ・リポート」の宣伝をみるたびに、劇場前で「サイコー」「超かっこいい」とかのたまっている若者のどれくらいが、ディックのこと知ってるのかなあ、とやや複雑な気持ちになる……来年のいまごろは「ソラリス最高」とかいわれちゃうのかなあ、それもやだなあ(笑)。



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