正解を得たときに感じるのは、喜びや解放ではなく、静けさなのだった。あるべきものがあるべき場所におさまり、一切手を加えたり、削ったりする余地などなく、昔からずっと変わらずそうであったかのような、そしてこれからも永遠にそうでありつづける確信に満ちた状態。博士はそれを愛していた。
「博士の愛した数式」 小川洋子 新潮社
家政婦の「わたし」が派遣されたのは、六十四歳の、数論専門の元大学教師の家だった。小柄で穏和、昔は美男子だったと思わせる風貌の博士だが、彼の時間は止まっていた。十七年前の事故のせいで、記憶の蓄積は1975年で終わっているのだ。くり返せる時間は八十分。だから彼にとって「わたし」はつねに初対面の新しい家政婦さんであり、しかも「考えて」いるときの博士を相手にすることは気疲れすることの連続。それでも、挨拶代わりに数字に関連する質問を口にする博士との日々は徐々に落ちついていき、そこに「わたし」の息子、博士によってルートと名づけられた少年が加わることで、彼らはひとつの和を得る。美しい数式と、江夏への傾倒。日々は優しく静かに過ぎてゆくが、思いがけない出来事が彼らの和を乱すことに――
靴のサイズは? 誕生日は? などという、他愛のない質問から、友愛数なんてことにまで話が飛んでしまう博士。実際にこういう人がいたら、たぶんわたしなどは即、逃げ出してしまうに違いない(正直、わたしはカタカナと数字とアルファベットが苦手なのだ)。だが主人公は博士に啓発されて数学の美しさやしなやかさに目をひらくのだから大したものである。
とりあえず、八十分しか記憶の持たない人との生活っていったいどんなものだろう、という興味から読み始めていいのではないかと思う。数学なんて苦手だな、わからないや、と思わずに。自分の記憶が八十分しかないということさえ覚えていられない博士の心情を思うと胸が痛い。なぜなら、彼が愛しているのは過去から未来へと続く静けさだからだ。けれど、八十分の間に、永遠に続く静けさの一瞬を切り取ることはできる。「わたし」やルートが博士のために作り上げた時間はそういうものだったのだろう、とそう思う。
さて、ネタばれになるかもしれないが、この本の中ではオイラーの公式が効果的に使われている。ところが、比喩があまりにも詩的すぎるせいなのか、わたしの数学的頭脳がなさ過ぎるせいなのか(明らかにこっちのせいだと思う)、「で、オイラーの公式って?」 というのが、イマイチわからず、わたしはそのせいでこの本を理解し損ねているのではないかとかなりもどかしい思いをした。
そこで、まあそんな人は少ないんだろうけれど、そういう人のために……別の本からの引用を下に掲げる。わたしはこれを読んでから「博士の愛した数式」を読み返すことで、なんとなく、博士の気持ちがわかったような気になったのだ(問題は「気になった」だけで、わかったわけではないところなのだが……ま、深くは突っ込まないで下さい)。
「代数、幾何、解析。数学の多くの分野は唯一の式に合流し、そしてそれを起点に再び奔流となって迸る。ネイピア数、円周率、虚数、指数関数、三角関数が織りなす不思議の環:オイラーの公式。ファインマンは「これは我々の至宝である」と嘆じた。」
「オイラーの贈り物」吉田武 ちくま学芸文庫裏表紙より
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