わたしたちはお互いの心の表面しかわからないのと同じように、お互いの行動もその表面しかわからないものだ。
「死せる少女たちの家」 スティーブン・ドビンズ(高津幸枝訳) 早川書房
人口七千人の、いわゆる「活気のない町」であるオーリリアス。それでも、その事件が起きるまでは、快適な生活を送っているという人々も多かった。よその土地のことがよくわからないから、気にもしていなかったということもあるけれど。
それにしてもその事件の、そもそもの最初はなんだったのだろう。きっかけは、よその土地からやってきたフランクリンかもしれない。<インディペンデント>誌の編集人であるフランクリンが、町の人々にインタビューを始めたのだ。彼は相手に自分のことを話させながら、他人が聞きたくない内容を引き出す癖があった。人々は、隣人がオーリリアスを退屈だと思っていることや、働かない言い訳を口にしていることや、ボトルシップ作りを趣味にしていることなどを知ってしまった。そして人々は、オーリリアス大学の新しい歴史教師が、マルクス主義にかぶれた過激なアルジェリア人だということを知った。偏見の目を隠すことのできない人々。しかも数人の学生がその歴史教師の指導の下、議論を交わすグループを形成し、他の人々といさかいを起こす。その学生たちの中には、かつて母親を殺されたアーロンも混じっていた。ほとんどの独身男(と既婚者)がアーロンの母ジャニスと関係を持ち、しかもジャニス殺しの犯人が捕まっていないことから、人々はアーロンを見るたびに不安な気持ちに襲われる。そして、その不穏な空気の中、ひとりの少女がいなくなった。
この町の中に犯人がいる。あいつはよそものだ、あいつはゲイだ、あいつはマルクス主義者だ、あいつの母親は殺されている、あいつは子どもにやさしい、あいつは……もはや誰も信じられない。狭い町で互いによく知っているからこそ、些細な出来事に疑心暗鬼の目を向け、少女を探すために集まったはずの「シャロン友の会」はいつしか強暴な自警団の様相を呈してゆき、そして、新たな事件が勃発する。
奇妙な味わいの作品である。
物語はすべて「わたし」の視点から語られる。一時期はニューヨークに住んでいたが、オーリリアスに戻ってきて生物学の教師をしている「わたし」は、この退屈しきった町の人々を子どもの頃からよく知っている。そして若者たちのことも、8年生のときや10年生のときの成績を思い出すことができる程度には知っている。だからこそ、彼が語り手である意味もあるのだ。訳者あとがきによれば、このようにして語られる町の人々は200人を越えるという。詳細に語られる隣人たちの過去や現在から見えてくる、なんともいえない不気味な感覚。
殺された少女が三人だということは、プロローグで明らかになっている。しかし、実際にはもっとたくさんの人が殺され、傷つけられ、町を追われている。どうしてそんなことになったのか。隣の人の中に、そして自分の中に醜いものを見つける瞬間。
スティーブン・キング絶賛。英国推理作家協会賞にノミネートされ、ブラム・ストーカー賞の候補にもなった作品。
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