「殺されても、手も足も出ないからじっと見てるだけなんですか」
「そうかな。でも本当は、手足があるのに出さんのかもしれんよ」
           
 「東京下町殺人暮色」宮部みゆき  光文社文庫

 両親の離婚により、八木沢順は父の道雄とのふたり暮しを始めた。隅田川と荒川に挟まれた下町のようでいて、一方ではウォーターフロントとしての顔を持つ、新旧が微妙に入り混じった町で新しい生活を始めた順たちの家には、働き者でしっかりした家政婦のハナさんも来てくれることになって、ふたりの生活は順調だった。順は、刑事である父の留守は、家政婦のハナさんと一緒に白菜の樽漬けを作ったり、ハナさんの生徒になっていろいろなことを教えてもらったりしている。だから、その噂も、そんなハナさんとの何気ない会話から出てきたのだ。この近くの家で、若い娘が殺されたらしい……と。
 順の耳にした噂とは別に、そのころ、道雄は荒川に浮かんだ若い女性のバラバラ死体の捜査を担当していた。次々に発見されるバラバラ死体はひとり分ではなく、しかも奇妙な犯行声明や告発文まで加わって、捜査本部は攪乱される。そんな中、地道な聞き込みを続けていた道雄と、少年らしい興味から殺人事件の噂に足をつっこんでいた順との道筋が交錯する。だが、順にはどうしても、殺人犯として告発された篠田東吾が人を殺すような人物には思えなかった……
 陰惨な事件だが、少年である順の生活を追った部分も多いため、それほど気持ち悪くはない。というより、むしろ少年らしい好奇心で事件を追う順の澄んだまなざしと、誠実に事件に取り組み、息子と向かい合う父道雄を描いたことで、物語が暗くならずにすんでいるのだと思う。しかし、それだけに、最後の真相の部分は重い。ネタバレになるので多くは語れないが、人の命があまりにも軽く扱われてしまうのは、順たちでなくとも、信じられない、信じたくないと思うことだ。現実にもありそうだと思わせて、気が重い。



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