考えてみると、アークターってのはそもそもおれだ。スキャナーに映ってるのはこのおれで、錠前屋との不気味な電話でバリスがハメようとしてた容疑者もおれだ。それなのにおれは、「こんなに執念深くバリスに狙われるなんて、アークターはなにをたくらんでたんだ?」なんて考えていた。どうかしてる。おれの頭はどうかしてる。
「暗闇のスキャナー」フィリップ・K・ディック(山形浩生訳) 創元SF文庫
麻薬捜査官フレッドは、ロバート・アークターという別名で、ジャンキーたちの仲間となって潜入捜査を続けていた。スクランブルスーツのおかげで、上司にさえ自らの姿を顕にすることはなく、覆面捜査官たち同士であっても、互いに誰が捜査官で誰が本物のジャンキーなのかは区別がつかない。そんなにまでして捜査官たちが躍起になって探そうとしているのは、物質D……どこからともなく供給されてくる、究極の麻薬の供給元。アークターとしてのフレッドは、物質Dの売人ドナと恋人だと思われているが、実際には周到な計算のもとに彼女を罠にかけようとしている――はずだった。
だが、ある日上司から命じられたのは、売人ドナに不可解な接触を仕掛けているアークターを監視せよ、というものだった。捜査のために接触しているのだとは明かせず、自分自身の監視をはじめるフレッド。だが、彼の頭の中は麻薬によって混濁していき……
この世界はいま自分がみているままの世界なのか? というのは、多くのディック作品に見られるものだったと思うが、「暗闇のスキャナー」では、自分はいったい誰なんだ? ということが曖昧になっていってしまう恐怖、麻薬によって失われていくものを自覚している恐怖、ついには自覚さえなく墜ちていく恐怖、そういったものが描かれている。
しかし、個人的には、この話の要は後半、アークターが完全に狂ってしまってからの部分にあるのではないかと思う。すべてを失った彼の中の、ほんの小さなきらめきにすがろうとする人々。狂気を得たゆえに穏やかで優しい暮らしを続けるフレッド。淡々と描かれていく日常だったからこそ、最後の三行に泣ける。
ディック自身も「一生に一度の大傑作」だといったという。最後の三行の重みは、確かに傑作だといって間違いない。絶対のオススメである。
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