今迄は、どうして虎などになつたかと怪しんでゐたのに、此の間ひよいと気がついて見たら、己はどうして以前、人間だつたのかと考えてゐた。之は恐ろしいことだ。今少し経てば、己の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすつかり埋れて消えて了ふだらう。丁度、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋没するやうに。
          
  「山月記」 中島敦

 隴西の李徴は博学才頴、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね……ではじまる「山月記」はおそらく日本で教育を受けた高校二年生以上は必ず知っている作品であると思われる。
 自尊心が高く傲慢でもある李徴は賤吏に甘んずるを潔しとせず、人と交わりを絶ってひたすら詩作にふける。詩家としての名を死語百年に残そうとしたのだ。だが、文明は容易に上がらず、生活の苦しさからついに節を屈してふたたび一地方官吏の職を奉ずるが、そのときにはすでに、彼が昔歯牙にもかけなかった鈍物たちが己よりもはるかに高位にいた……
 傷ついた自尊心を抱え、ついには己の性情のままに虎へと姿を変えてしまった李徴。彼の語る「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」に、痛みにも似た共感を抱く人も多いのではないだろうか。
「己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨かうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかつた」李徴は、虎になったとき、そんな自分のことを「事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭ふ怠惰とが己の凡てだつたのだ」と自嘲する。その言葉はせつなく胸にせまってきてやまない。
 実はわたしは高校二年生まで、英文科に進むつもりだった。ところがある日、国語の授業中に暇を持てあまして、まだやっていない先にある「山月記」を読み……日本文学科に進んでこの作品で卒業論文を書く、と決めたっていうのだから、この作品はわたしにとって大きな意味をもっている。
 中島敦の作品では文庫に収録されていない「過去帳」と呼ばれる二篇がわたしとしてはお気に入りだ。高校時代のあるとき、図書館の片隅でまだだれにも借りられることなく何年もすぎていた中島敦全集を紐解いたときの感動は、いまでも心に残っている。
 たとえば……「かめれおん日記」の一節。
「金魚鉢の中の金魚。自分の位置を知り、自己及び自己の世界の下らなさ・狭さを知悉してゐる絶望的な金魚。
 絶望しながらも、自己及び狭い自己の世界を愛せずにはゐられない金魚」
「本当の睡眠も本当の覚醒も私からは失はれた。私の精神はもはや再び働く力を失ひ、完全に眠り・淀み・腐つた。精神の罐詰、腐つた罐詰、木乃伊、化石。
 之以上完全な輝かしい成功があらうか」

 たとえば……「狼疾記」
「それが今ある如くあらねばならぬ理由が何処にあるか? もつと遥かに違つたものであつていい筈だ。おまけに、今ある通りのものは可能の中での最も醜悪なものではないのか?」

 若くして失われた才能を惜しまずにはいられない。




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