地獄へ引きずり込まれかけているのかも知れないけれど、まだまだわたしも捨てたものでない。
           
 「六十四時間」(「地獄の静かな夜」所収)A・J・クィネル(大熊榮訳) 集英社

 シドニーからパースへと向かう、インディアン・パシフィックの豪華列車。己に自信を持ち、旅を楽しむ男ポールと、未亡人になったことですべてを失い、いやいやながら親戚のいる街へ向かおうとしているジェニーが出会う。それは、ドレスコードのない騒然とした食堂車に、ラルフ・ローレンのドレスとバリーのハイヒールを履いて出かけていき、奇異な目で見られてしまったジェニーが、完璧な仕立てのスーツに身を包んだポールと出会ったことから始まった。ディナーのためにドレスアップするという習慣の共有をきっかけに、相席となったふたりは、特にポールはジェニーに惹かれるものをおぼえる。旅は64時間あるのだ。手強い相手に対しても、じっくり時間をかける暇もある。ふたりはさまざまな思いをめぐらしながら、恋のかけ引きを演じてゆく。そして、恋の結末、最後に明かされる真実。
 短編集。
 実はつい最近、とある作品に対して、「恋愛小説もミステリーになる」「最後まで読んで、騙されていたことに気づく」「その日のうちに読み返してしまった」等々の言葉をきいたのだが、わたしはこの作品にこそ、その賛辞をささげようと思う。特にどこに謎があるわけでもない。はっきりいって、最後の一行になるまで、この小説はごくありふれた男と女の出会いである。けれど、最後の一行を読んだ瞬間に、この短篇は上質なミステリ――「トリック」「仕掛け」のおもしろさではなく、「騙された」という感覚を味わわせてくれる。うまい。
 読みきり短篇だが、ファンにはうれしいクリーシィものも収められている(クリーシィ・シリーズを読んでいない人ももちろん楽しめる)。贅沢な短篇集である。オススメ 。



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