グレアムは仕事に飽き、自分勝手になり、怒りっぽく、疲れはて、子供のような心理状態になっていた。ものごとを測る基準も子供のころ教わったものにもどっていた。
 <北>と言えばハイウェイ61号線の方角だし、<180センチ>と言えばいつまで経っても父親の身長のことだった。
              
 「レッド・ドラゴン」 トマス・ハリス(小倉多加志訳) 早川書房

 連続して起きた二つの殺人事件。どちらも家族全員が無残に殺され、現場に残された死体には奇妙な歯形が残されていた。犯人の「噛みつき魔」逮捕のために呼び出されたのは元FBI捜査官のウィル・グレアム。かつて猟奇的な殺人を繰り返していたレクター博士を捕まえた英雄。その後、とある時間をきっかけに精神のバランスを崩して引退していた男である。調査を開始したグレアムは、犯人をより深く理解するために、ボルティモア刑務所に収監中のレクター博士の元を訪れる。しかし、グレアムがレクターの元を訪れたことを新聞によって知った「噛みつき魔」がレクターに手紙を送り、怪物ふたりの文通によりグレアムの命が危険にさらされてしまう。そして再び起こる惨劇。
 ハンニバル・レクター初登場。ということではあるが、実際には彼の出番は非常に少ない。「羊たちの沈黙」ほどの心理分析もなく、グレアムへのコメントや手紙も、スターリングに対するものとは比較にならないほど。では「噛みつき魔」(のちに「赤き竜」と変化する)はどうかというと、これも暗い幼年時代を引きずった男ではあるが、それほどのおもしろみは感じられない。この物語でいちばん歪んでいて、いちばん犯罪者っぽいのは、なんといってもグレアムなのだ。
 途中、自身は否定するが、どう考えても彼の陰険な策略が原因だとしか思えない状況でひとりの男が死ぬ。そのあまりの陰険さには驚かされるし、もし本人がそれを無意識で行ったのだとしても、無邪気な悪意としかいいようがない。弱くて卑怯で子どもっぽくて。ある意味、人間らしい人間である。のちに「羊たちの沈黙」で明らかになる彼の今後のことなどはちょっと忘れて……この本のグレアムを楽しんでもらいたい



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