しかし、牛一はこの時は既に、自分の描く人物に必要以上の敬愛と愛情を注いでしまうという、伝記作者の陥り易い穴に嵌っていた。
「信長の棺」加藤廣 日本経済新聞社
織田信長が本能寺に立つ直前。側近のひとり、太田信定は信長から奇妙な預かりものをした。しかし、それもつかのま、本能寺の変によって信長は命を落とし、信定もまた、誰ともわからぬ者に幽閉されたまま十か月を過ごすはめになった。誰が何のために? わけのわからぬまま、ようやく世間に出てきたとき、そこは秀吉が大殿と呼ばれる世界へと変わっていた。いまさら、秀吉に頭を下げ続け、侍として生きたいほどの年でもない。信定は牛一と名をかえて隠居し、かねてから思いをあたためていた、旧主、信長の伝記を書くことにする。しかし、それを公のものとすることは、どうしても秀吉の許可が下りなかった。しかも、伝記を書くにあたって、自分が仕える以前と、本能寺後のことも書きたいが、信長さまの遺体はいまだ見つかってはいないのだ。もどかしさを感じ、まよいつつ、資料を集め、筆を進める牛一のもとに、なんどこれまで反対していた秀吉から、信長の伝記を記すようにという命が下る――
信長をただひとりの主と思い、信長亡き後も、敬慕の情をなくさない牛一にとっては、信長の残虐な姿は書きたくないものである。しかも、自分の手元には信長から預かり、信長の真の姿を示すものがある。
信長の遺体は、いったいどこへ消えたのか。本能寺の変の真実とは。物語は、伝記作家のたどる道筋を描きながら、信長の最期を明らかにしていく。
うまくできた歴史ミステリー。主人公の太田牛一の一途で生真面目なところが、かえって物語に深みを与えているようにも思う。
最後に明かされる秘密まで、目が離せない。
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