長田はスーツの内ポケットに手を入れたまま階段を降りきった。免許証を弄びながら、晴ればれとした表情で呟いた。
「俺は探偵だ」
             
「眠り猫」 花村萬月  新潮文庫

 人生勉強になるからと勤めていたアルバイト先のクラブで、新劇女優の村上冴子は猫と呼ばれる男と会った。体格がよく目が細いために眠り猫、猫と呼ばれる元刑事と、小指の先を欠いた元ヤクザ。ふたりは私立探偵なのだという。最初こそ奇妙なふたり組だと思うが、彼らの思いがけない照れや含羞みに出会って、冴子はいつのまにかとてもリラックスしている自分に気づく。彼女の持つ人見知りの部分が、他の人間には冷たく傲慢だと受けとめられたとしても、彼らは違う。彼らと関わることで、冴子はいままで知らなかった自分の一面をも発見していくようになる。
 物語は長田が引き受けた隆桜会の姐さんの尾行――という仕事から、思いがけない展開を見せる。猫、猫の探偵助手となった冴子、そして猫の息子のタケ。三人はいつしか激しい暴力団同士の抗争に巻き込まれてゆく。
 とにかく人物が、いい。猫はもちろんだが、金色の頭をしてバイクをすっ飛ばしているタケにしても、兎を可愛がる長田にしても、つっぱった男の可愛らしさみたいなものが、冴子の目を通じて描かれることでとても愛しく、官能的で、人間くさい。
 組の事務所を訪れるとき、長田は靴底に免許証を隠し、外で張り込んでいる刑事たちに身元が割れないように用心していた。だが、組事務所からの帰り、組員よりもよほど貫禄のある風情を見せながら――長田は「俺は探偵だ」と呟いて、免許証を靴底にしまうことはやめる。その思いの強さ、その歓びにも似た感情のすがすがしさ。ほとんどが冴子の目を通じて描かれているために、目を背けたくなるような暴力や、過激な性描写などはほとんどない。花村萬月初心者にもオススメできる一冊。



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