「やあ、おはよう、おはよう。今日は僕らにとってどんな日になるだろうねえ」
            
 「敵」(「銀の仮面」所収)ヒュー・ウォルポール(倉阪鬼一郎訳)国書刊行会

 小さな古本屋を営むジャック・ハーディングは8時45分に家を出る。自分の店を愛しているハーディングにとって、通勤時間は店のことをあれこれ考えたりする幸せな時間だ。ところが、数年前、毎朝の通勤の途中である男に会ってしまったために、ハーディングの悪夢は始まった。一人の男が毎朝ハーディングが家の前を通りかかるのを待っていたかのように飛び出してきて、陽気な朝の会話をもちかけてくるのだ。ハーディングは朝の会話など楽しみたくないのに、トンクスというその男は天気のことや自分の生活、株の話、裏庭のゼラニウム、競馬、夏休みの予定、ひっきりなしに元気よく大声でしゃべりまくる。そのうち、ハーディングはトンクスのことを意識から消すことができなくなってしまった。今日もまたあいつがいるんじゃないかと思うと、朝、出かけることさえ苦痛になってしまう。ついには夢の中にまでトンクスが出てくるようになってしまった。しかし、一方で一週間もトンクスの姿が見えないと、トンクスに会えないことが痛切に寂しいような気もしてきてしまうのだ。そんな自分にハーディングはいらいらしてしまう。そしてある日……。
 短篇集。人間心理の複雑さというか、人間関係の奇妙さを描いたという意味で絶品の作品ばかりである。この「敵」も、トンクスに悪意はなく、彼にとってのハーディングは大親友なのだが、ハーディングは一方的に被害妄想に陥って嫌悪感を抱く。あるある、こういうこと。大嫌いな人間に好かれちゃうってこと。と思っていると、この本の中にはこれと逆のパターンの話も収められている。「トーランド家の長老」がそれだ。
 レイフェルという小さな町では、齢何歳とも知れぬトーランド家の老婆が君臨していた。長老はすでに一人では歩けず、声を出すことも出来ないが、それでも彼女の支配力は強く、一族のものは粛々と従うのみ。ところがそこに、レイフェルの外からやってきたコンバー夫人がやってくる。コンバー夫人には、長老は慈愛を施されるのを待ち受けているこの上なくよるべない存在に感じられたため、彼女は近くに座り込み、返事がないのは承知でおしゃべりをし、老婆が嫌うゼリーを浮かべたスープを親切心から一生懸命飲ませた。老婆が人知を超えた苦しみのさなかにあることなど露知らず。そしてある日。
 実はわたし、「敵」のラストには泣いたのですが、「トーランド家の長老」のラストには大笑いしてしまいました。冷静に考えると、これはほとんど同じパターンの裏表なのに。どうしてでしょう。自分の性格によるものではないかと……ちょっと怖い。
 表題作は江戸川乱歩が<奇妙な味>の傑作と絶賛したそうである。なんとなく「料理人」を思わせる作品。とにかく一度読んでほしい。オススメ。




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