――ワンダランドの入口。それは、いつぞやの"気違いお茶会"で、紅司が初めて喋った言葉だが、亜利夫にしてみればもういい加減その中を引きずり廻されている気がする。
             
 「虚無への供物」 塔晶夫(中井英夫) 東京創元社

 1954年(昭和29年)。すこぶる陰惨な事件の多かったその年の暮れ、下谷・竜泉寺のケイバア"アラビク"から物語は幕をあける。余興のサロメを眺めつつ、藍ちゃんと呼ばれる氷沼藍司を待っていた光田亜利夫だが、相手はなかなか現れず、しかもようやく現れた藍ちゃんは、幻のようなアイヌを見かけ、追いかけていたのだとにわかには信じられないことを口走る。そして明かされるアイヌ狩りにまつわる氷沼家の暗い過去。かけだしのシャンソン歌手で、探偵気質たっぷりの女性、奈々村久生がそれを聞いて黙っているはずもない。この先起こるであろう「ザ・ヒヌマ・マーダー」のために、アリョーシャ(亜利夫)を氷沼家へと派遣し、ワトソンをこきつかうホームズを気どるのだが、そこには亜利夫の高校時代の知り合い蒼司、エキセントリックな弟の紅司、そして藍司、叔父の橙次郎らが、それぞれの名にちなんだ色に染め上げた部屋で暮らしており、何らかの事件がおきてはおかしくない様相ではあった。未来の犯人はいったい誰なのか。他愛のない推理を繰り広げているだけと思われたある日、鍵のかかった浴室で紅司が死体となって発見される。事故か、自殺か、殺人か。素人探偵たちがそれぞれの推理を披露するが、また新たな密室殺人が。
 Ashさんオススメの(ってしていいのかな)作品。「匣の中の失楽」を読んだときに、これも、という感じでご紹介いただいたのだが、確かに未来の殺人について云々したり、突然、作中小説の形式で真相が暴かれたり(もちろん「小説」なので真相ではないのだが)と、現実と非現実が絡み合う点で、「匣の中の失楽」を思わせる。個人的には「匣の中の失楽」よりもすっきりしているというか、混沌ぶりが少ないので読みやすく、大いに楽しめた。最後に、読むべき伏線についてまで登場人物たちがアドバイスをくれるという親切ぶりで、これは「匣の中の失楽」がダメだった人でも大丈夫! と太鼓判を押せる一作。
 それにしてもあれですね、この時代の知的遊戯者たちは「アリョーシャ」だの「ナイルズ」だのっていうあだ名をつけるのは当たり前だったのでしょうか。なんか不思議な感覚にとらわれるのです。



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