いま現在の自分がいままでずっと存在してきた自分でないとしたら、わたしはいったいいままで何者だったのか? 私はそのことについてときどき考えてきた。もし私が、ひとびとが言っていることをたやすく理解できるとわかったら、ひとの言うことをもっと聞きたいと思っただろうか?
           
「くらやみの速さはどれくらい」 エリザベス・ムーン(小尾芙佐訳) 早川書房

 物語は、35歳のルウ・アレンデイルと精神科医のやり取りから始まる。質問、質問。たくさんの質問。精神科医のドクター・フォーナムは、その質問がどのような意図でなされたものなのかルウには理解できないと思っているが、実は「私」、ルウはドクター・フォーナムが考えている以上に、自分が何を理解しないかということを理解している。ルウにわからないのは、正常者たちがどこまで理解していないかという、そのことだ。医学の進歩により、自閉症は幼児期の治療によって治癒可能なものとなった。ルウやその仲間たちは治療法が確立する前に大人になった、ほぼ最後の自閉症者の世代となる。しかし彼らは、その特異な才能、数学的に図抜けた頭脳を活かし、自律した生活を送っていた。さらに、ルウはパターンを見抜くという才能を、フェンシングの場で活かし、正常者たちとぎこちないながらも親密な関係を築いていた。そんなある日、ルウたちが勤務する製薬会社で、成人の自閉症治療の実験台になれという話がもちあがる。もし自分が正常者になったら、いままでの自分ではなくなってしまうのではないか? しかもどうやらルウをターゲットとしているらしい事故も相次いで起こる。正常な人というのは、どれだけ正常なんだろう。光がどんなに速く進んでも、その先には必ず闇がある。それは、闇のほうが光よりも速いということにはならないのか? 
 近未来の話という設定なので、ルウは幼少時に自閉症を治す治療こそ受けられなかったものの、言語の訓練を受け、表情を理解する努力をし、かなり高い能力を持っている。そのルウの視点から描かれた世界の静謐な感じと、途中に挟まれる三人称部分との差異は、ルウにいわせれば正常者であるわたしなどは、読んでいて新たな視点を与えられたような気持ちにもなる。不思議な感触である。
 高い能力を持ちながらも、社交性、人とうまくやっていく、という部分で障害を抱えているルウ。とはいえ、彼は彼なりにフェンシングの仲間や自分の暮らすアパートで正常人たちとも付き合ってきているのだ。それをさらに「治癒」させる必要があるのか? しかも、脳をいじり、彼が彼でなくなる危険を冒して?
 「アルジャーノンに花束を」のチャーリーは深く悩むまもなく手術を受けてしまうわけだが、この話は、ルウ自身が、自閉症の自分、という存在について、その存在意義について、深く考える部分が主となっている。それだけに、後半は思わず泣きました、わたし。あまり語るとネタバレになるのでこれ以上は書きませんが。
 絶対のオススメです。ネビュラ賞受賞。やっぱりね。なんでヒューゴー賞はとれなかったんだろう。



オススメ本リストへ