あなたがわたしを殺しても、わたしは万物に姿を変えてあなたの元にあらわれる。秋の夜長に弾くチェロになってあなたの孤独を慰め、冬の朝の郵便ポストになってあなたからの手紙を待ちわびる。
「ケッヘル」 中山可穂 文藝春秋
ドーバー海峡に面した港町で、「わたし」木村伽椰は、海に向かって一心不乱に指揮棒を振る男を見た。見えないオーケストラにむかってひたむきに指揮をとる男は、遠松鍵人。筋金入りのモーツァルティアンだった。乗る予定の飛行機の便が626便だったからといって乗らず(ケッヘル626番はレクイエムで、縁起が悪いため)、自分の部屋と伽椰の部屋の番号がともに変ホ長調を含むケッヘル16番とケッヘル207番であるといって運命を感じる男。ただひたすらにモーツァルトを愛する男に、伽椰はいつしか心を許し、フィガロという猫の世話をするために、遠松の鎌倉の家で留守番をすることを了承する。三年前、事情があって日本を逃げ出してきた伽椰には、隠れ家のようなその鎌倉の家での静かな暮らしが必要だったのだ。だが、新しい生活に慣れた伽椰は、遠松の会社であるアマデウス・コーポレーションに仕事を求めに行き、そこで「訳あり個人旅行」の付き添いとなったことから、連続殺人事件へと巻き込まれてゆく。
どこかにはいるらしいが、決して伽椰の前に姿を現すことのない遠松。物語は、伽椰が遭遇する連続殺人事件の合間に、遠松鍵人というひとりの男の人生を丹念に描き出してゆく。モーツァルトに取りつかれた指揮者と、彼を愛したピアニスト。女は男に黙って少年を産み落とし、外界との接触をいっさい断って、世界に類のないモーツァルト弾きとして少年を教育する。だが、運命は幼くして天賦の才を見せた少年と父親とを再会させ、母親の死後、少年は半ば誘拐されるようにして、父親との放浪の旅に出る。少年の人生は、母との閉ざされた暮らし、父との放浪生活、そしてある少女との出会いによって激変した高校生活という三つのパートから成り立っているといってもよい。伽椰が関わってしまうのは、この三つめのパートの後日談だ。
個人的な追悼ミサに参加するという客、柳井に付き添ってウィーンへと旅立った伽椰だが、客の柳井は旅先で溺死する。事故か、自殺か。事件性はないとされたその死に疑問をおぼえる伽椰。そして次の客、栗田宗一郎さえもが残虐な殺され方をし、そこで初めて、伽椰は柳井、栗田の他、伽椰にとっては宿敵ともいえる辰巳直道までもが、口に出せない過去を共有し、暗いつながりを持つ仲間であることを知る。そして、彼らを憎み、殺そうとしているのは遠松に違いないということを。しかし、ほんとうに? モーツァルトを愛し、穏やかに優しく伽椰に手をさしのべた彼が、人を殺すことなどできるのだろうか?
世界の謎を解く鍵はケッヘル番号に隠れていると信じ、モーツァルトの音楽は人類に発信されたメッセージだと信じる男。モーツァルトおたくといっていい男たちが多数登場するが、伽椰自身はそれほどモーツァルトにはまっているわけではない。だから、伽椰があきれつつもモーツァルトの魅力にひきずりこまれていくにつれ、読み手にもモーツァルトのよさといったものが伝わってくる楽しみがある。
犯人あてミステリだと思って読むと、最後はあっけないかもしれない。だが、殺人の裏にひそむ哀しみや、人と人とのつながりの不思議、警察でも探偵でもなく、ただ事件に関わってしまったものの無力さといったところを描いた点では、さびしく、哀しく、そして美しい作品になっていると思う。
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