幸せだった。
 幸せすぎて胸が詰まり、呼吸困難になって死んでしまいそうなほど、幸せだった。
            
   「食堂かたつむり」 小川糸  ポプラ社

 十五歳で山あいの村を出て都会にやってきてから一度もふるさとに戻ったことのない「私」は、インド人の恋人とともにインド料理の店を開くことを楽しみに暮らしていた。だがある日帰宅した彼女が見たのは、何もない部屋。家財道具一式、ふたりで貯めていた開店資金。それらすべてを持って恋人はどこかに行ってしまったのだ。打ちのめされた私は声をも失い、ただ一つ残されていたぬか床を持って、実家行きの深夜高速バスに乗っていた。大嫌いなおかんの隠したお金を持って逃げてやろう、と思っていた私だったが、あえなく母親に見つかり、守銭奴のようなおかんの元で暮らすうち、どうにか家の物置小屋を借りて食堂ができないか、と思いつく。
一日一組。その人に、その人たちにふさわしい料理を考えて提供する。声は失ってしまったが、人とつながる心は失っていない。そしていつしか食堂かたつむりで料理を食べるとしあわせになるという噂が広まって……
絶望した女性の再生の物語。とひとことでいってしまえば簡単だが、静かで穏やかな日常を、料理を中心に描くことで、豊かで潤いのあるものに仕上がっている。ひとりひとりに物語があり、ひとつひとつの料理に物語がある。ささやかなしあわせに息を詰まらせながら生きていく私の姿に、いつしか読者までもが癒されるに違いない。他人とは心を通じあわせることができないのに、どうして母親のことは好きになれないのだろう。その問いは、思いもかけない結末を迎える。食べた人がしあわせになるように、読んだ人がしあわせになるように書かれた物語。疲れているときに、ぜひ。



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