血が睡っているので彼のからだは重く、いとおしさが環のなかに溜まってゆき、抱いているのは骸なのだ、と意識したとき、髪ふり乱した女の哄笑を、視た。
                
「彼方の微笑」 皆川博子  創元推理文庫

 幕が一枚、かかっている。それも紗のように薄いものではなく、緞帳……中の透けない、壁とも見まごうものだ。物語のトーンの重苦しさを、こんな風に感じてしまう。剥き出しで伝わってくるもののない、だからこそ重苦しい澱みが気になって仕方ない、と。
 幼い日に強烈な幻視体験をした日高環はその後フラスコ画を学び、現在は聖堂学園の礼拝堂の壁画制作に携わっている。冷たさが優しさに見えるほどそっけなく他人とのかかわりを避け、現実の中で息をすることなく暮らすような環だが、ある日、礼拝堂が爆破されて仕事を失い、その後、身近な青年が亡くなったことでさらに現実感を失ってゆく。冷たくなった青年の骸を裸にし、石の室で抱きしめながら、確実に美しい肉の?を<持って>いる恍惚感。環はそれに飲み込まれてしまうのだ。
 一方で、見知らぬ相手を殺したその恍惚感に酔う少年、辻冬人。そして冬人と知りあうことで、それまでは自分を抑えてごく普通の生活を送ってきたはずの、亡くなった青年が勤めていたスナックのマスター北森もまた静かに自分を解き放ち始める。同じ魂を持つ三人。彼らの行く先はどこなのか――
 重い。しかも皆川博子らしくないほどに、澱んでいる。死や死体に惹かれる異常性というだけなら、これまで気味の悪い話はいくらだってあっただろう。ただ、今回は現実と異世界とがするりとつながる異様感が、逆転しているように思えてしまうのだ。彼らの住んでいる異世界から、現実が否応もなく見え隠れする、そんな風に。ただ、そのように停滞しているからこそ、ラストの環の選択に圧倒される。皆川博子ファン必読。ただし、初心者…これが皆川博子第一作目という方はやめてください。これを彼女の代表的な形だと思われると、大きな間違いなので。(ええっとええっと、初心者は「恋紅」とか「たまご猫」とか、せめて「死の泉」あたりから…)。



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