定一は幸造を認めると、目をきらめかせていった。
「話をしちゃろうか」
「隠れ山」(「神祭」所収) 坂東眞佐子 角川文庫
北村定一が家を出たのは、盆の初日だった。母親の墓の前に立つ姿を、墓地の近くに住む市川幸造が目にしていた。しかし、それを最後にぱたりと姿を消してしまい、杳として行方が知れない。失踪以前の定一は現代版「養老の滝」の孝行息子として知られ、その母親へのあまりの献身ぶりは表立って誉められこそすれ、こころの底では村人たちにどことなく違和感を与えるほどのものだったが、だからといって特別な人間ではない。どちらかといえば役場でぼうっとしている、そんな男だ。消防団員たちが果敢に捜索を続けながらも、どことなく家族以外の誰もが真剣になれずにいた、そんなとき――山に定一が現れた。それも、妙な「打ち明け話」を語る存在として。それは嘘ではないが真実ともいいがたい、砂粒ほどの真実をスポンジケーキに押し込んで、こってりと虚言のクリームをなすりつけ、三層仕立てのウエディングケーキを作りあげた……そんなもの。噂された人々に気まずい思いをさせ、噂好きの人間たちを喜ばせる話、彼は何のためにそんな話をするのか。そして、そもそも彼はほんとうに生きているのか? 頭から血を流し、失踪当時と同じ姿で現れる定一は、もはや山の怪異のひとつに過ぎないのか、それとも。
短編集。山に囲まれた盆地にひっそり佇む嬉才野村の、ちょっぴり不思議で、土の香りのする物語たち。季節はさまざまなので別に夏ではないのだけれど、これを読んでいたら、夏だなあ、という気がしてしまった。小学生の夏休み、田舎で遊んだ日々のことを思い出してしまったからだ。どじょうすくいに行った川の冷たさ、ビーチサンダルの裏に感じられた石のごつごつした感じ、ゆでたてのとうもろこし、稲の上をわたる緑色の風。こういういいかたをすると怒られるかもしれないけれど、日本の田舎はいいですねえ……
オススメ本リストへ