ばかばかしくくだらない、でも楽しい、少なくとも楽しくしようとふたりで努力する限られた時間、それが記憶に残って、また何年も私たちを幸福にするためのなにかがあるはずではなかったの、と。
あなたが夫にもいえずに胸底にためていた詠嘆を聞くためにだけ、私が今ここにいるのなら、あなたに共感するほかのどんな役割も求められていないのなら、私はとても淋しい、と。
「詠嘆なんて大嫌い」(「いっぱしの女」所収)氷室冴子 ちくま文庫
女には――と書くと、氷室冴子に、
「その強引さが多分にフィクショナルなものだとしても、そこに、自分が女だから、女の子とはわかるという甘えがないだろうか」
と叱られてしまいそうなので、「わたしは」もしくは「わたしの友人たちは」と気をつけて書かねばならないが、わたしやわたしの友人たちも、ここに書かれている氷室冴子のように、女同士でそのうち一緒に暮らしたいね、なんて話をしたり、お互いの変化を淋しく思ったり、周囲の目をはねかえして力強く胸を張ることがあったと思う。少なくとも、わたしは、ある。
ここに書かれていたエッセイで、ああわたしの思っていたことを上手にいってくれた! と思ったのは、この「詠嘆なんて大嫌い」の部分。わたしはかつて、これと同じようなことを、けれど上手に伝えることはできなくて、とてももどかしい思いをしたことがあったから。
ここでは、いわゆる家族の愚痴をいう女性に対する違和感というか、それだけ変貌してしまった相手に対する淋しさが書かれているのだが、わたしの場合には、家族の自慢をする人のこともあまり好きではないというのもプラスされていたせいかもしれない。一時期、わたしの周囲には、自分の夫の会社や、自分の子ども、そういったことばかりを話のネタにし、あるときは自慢、あるときは愚痴、とえんえん語ることのできる人たちばかりだったのである。しかも彼女たちは互いの夫、互いの子どもたちを直接的には知らないのに、話だけがどんどんエスカレートしていった。独身のわたしはただただ耳を傾けるだけだったが、ある日もうやだ、と思った。この人たちにはそれ以外に話すことがないんだろうかと。わたしたちは以前、いろんなことを共有していて、それは「あなた自身」が持つ感じ方や考え方といったものとの重なりだったのに、いつのまに「あなた」は「○○の妻」「××ちゃんのお母さん」でしかなくなっちゃったの? と。そのときのなんともいえない気持ちが、ここでははっきりと書かれている。
30過ぎの独身女性には共感できるところ大のエッセイ集である。
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