「暑いからぼけたんじゃないの? 親の苗字を聞く子供が何処にいるのさ」
「異人たちとの夏」 山田太一 新潮文庫
脚本家の「私」は妻と離婚し、仕事場にしていたマンションでひとり暮らしを始めた。幹線道路近くのそのマンションは、仕事場として使う人が多く、夜になると住んでいる人などほとんどいないらしい。「静かすぎる」。車の往来の激しい道路近くで、静かすぎると感じるのは、神経がまいっている証拠だろうか。そんな折、仕事仲間として信頼していた間宮が、妻と付き合うことを告げてきて、私はさらにショックを受ける。つのる孤独感。
幼いときに両親を亡くし、預けられていた先の祖父も亡くし、以来、ひとりだ。生まれ育った懐かしい町、浅草にひさしぶりに足を運んだ私は、そこで亡き父にそっくりな男を見る。四十後半の自分が、三十代の男を父と感じるなどおかしいことだが、男は確かに、亡くなる前の父そっくりだったのだ。しかも、馴れ馴れしく話しかけてきた男について彼の家にむかうと、そこには若き日の母そっくりな女性がいた。見知らぬ男が突然やってきたのに、まるで家族のように向かい入れてくれるふたり。彼らは本当に両親ではないのか? これは手で触れられるほどリアルな幻想にすぎないのだろうか。父や母そっくりな人びとに心から甘えることで、仕事も生活もうまくいくように思えたが、それはどうやら自分にはわからないだけらしく……
さびしい男の、さびしい物語、なのかもしれない。
失ってしまったのは妻であり、生活そのものであり、自分自身なのかもしれなかった。美しい恋人ができても、なお、両親のもとに通い続けてしまう。それによって、自分が驚くほどやつれてしまっていたとしても。
美しい哀しみの漂う物語。単なる幽霊話としてではなく、人の心の中にある寂しさを美しく描いた作品なのだと思う。短い物語だが、残るものは多い。
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