みなさん、妖精はいます。いますとも。だけどサンタクロースはいません。いいですか、少なくともいまの日本では。わたくしがいま現在おなじ社説を書かされたとしたら、少なくとも彼をとげぬき地蔵と同列に置くくらいの知恵は傾けたと思います。妖精は違います、とげを与える者か、もしかしてとげそのものなのですよ、とね。 
          
「いづくへか」矢川澄子 筑摩書房

 1930年夏に生まれた子どもは、満十五歳になった途端に戦争から解放されたのだった。だがそれまで、「お教室のいちばん、運動場のビリ」であった少女にとって、勤労奉仕とはどのようなものであったろう。しかも病気休学明けの発育不全の少女の目に、手作業のかたわらひたすら井戸端会議にふける「女」たちがどのように映ったことか。彼女は書く。
 わたしはひとりぼっち、おそろしくひとりぼっちだった。成績を競う必要のなくなった分だけ、少女たちの持って生まれた美貌とか、運動能力とか協調性とかが大きくものをいう集団。そんな集団のなかで、こちらは完全に浮き上がり、孤立した存在だった。

 そして敗戦。自分のもとめるものを学べる機会を与えられ、少数だけれど一生友だちとしてつきあって行けそうな仲間たち、自分の素性を押隠さなくてもいい人たちに迎え入れられて、少女はようやく呼吸ができる場所を見つけたのだ。もともと独文学者になるつもりなどなかった、ただただお友達がほしい、話し相手がほしかっただけ――そう書かれた文章を読み、彼女の訳出本のこころに響くことばの数々を思う。
 2002年5月に自死した矢川澄子の既刊単行本および未収録エッセイなどを収録した作品群。
 みずからの名前をアナグラムにしようと試み、名前の中に「USAGI」が入っていることに気付いた――そのせいなのだろうか、彼女のうさぎやアリスに対する思い入れは。けれど、彼女のアリスや童話は、決して愛らしく可愛らしいだけのものではないのだ。地元が観光の目玉として企画した「童話の森」に、やめてください、と口走り、生理的な拒絶反応を示す。
 わたしにとってのほんとうの童話の精神とは、ひとりひとりの心の最もひそやかな内奥にこそ宿るべきものであって、この世の時空間の限りにはぜったい囚われてならないものだからだ。ましてやそれを観光開発の目玉にだなんて!
 幾つになっても、少女の心を失わない人だった。外国の作品は訳者を望んで読むこともあるわたしにとって、矢川澄子の訳出本や彼女のエッセイを追うことは楽しい作業であった。彼女を知らない人よりも、せめて彼女の訳出本を数冊読んだことのある人にこそ読んでもらいたい一冊である。



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