しあわせなんて、簡単だ。嫌なヴァイオリンのレッスンをさぼって、それでこんなにしあわせになれるんなら、人生ってやつは、そんなに悪くないかもしれない。
          
 「星兎」寮美千子 パロル舎

 主人公の「ぼく」、ユーリはある春の日、人の溢れるショッピングモールで「うさぎ」と出会う。ぬいぐるみなんかじゃない、等身大の、ほんもののうさぎだ。鋭い前歯が二本、その奥にはピンク色の歯茎、口の縁のところだけがちょっと茶色。そんなうさぎが目を輝かせて近寄ってきて、「きみ、かわいいね」なんていうのだから……そのときのユーリの深い絶望感は想像するに余りある。ともあれ、途方もなく無邪気でまっすぐな好意をむけてくるうさぎを邪険にすることもできず、いつしかユーリはうさぎのことを大切に、そしてどこか、かわいそうに、思うようになる。なぜなら、うさぎは自分がどこからきて、どうしてうさぎなのかを、知らないようだからだ。
 それでも、名前も家も過去も持たないうさぎはいう。
「これはこれで、さっぱりしていて気持ちがいいよ。いくところもないし、帰るところもない。でも、どこへでも好きなところへいけて、好きなところへ帰れる。ぼくは、誰のものでもない。ぼくは、ぼくのものなんだから」
 ユーリは、そのときのうさぎの顔をすごくきれいだ、と思う。そして、自分はどうだろうか、と。自分は家族とうまくやっていくために、「ぼく」というぬいぐるみをかぶっているのではないだろうか、と……。
 ユーリとうさぎの会話はやさしくて、どこかせつない。帯にも引用されている最後の言葉、
「ぼくのこと、忘れないでいてくれる?」
「忘れなくてすむんなら、宇宙が終わるまで忘れない」
 も、もちろんだし、
「ぼくと出会ってくれて、ありがとう」
 なんていう台詞もいい。せつなく、やさしい気分になれる。


(独りごと)
 あー……でもね。みっしりと顔を覆った灰色の短い毛と、まっ赤な目玉、つんとした獣の匂い、のする等身大のうさぎを想像してみてほしい。
 で、そのうさぎが、カーニバルの間はぐれないようにと手をつなごうとすると、うれしくてうれしくてたまらない、って顔をするところを……想像してみてほしい。
 怖くない?
 わたしは、怖い。



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