しかし今日は一切が変わってしまった。
「鳩」 パトリック・ズュースキント(岩淵達治訳) 同学社(「新しいドイツの文学」シリーズB)
ジョナタン・ノエルはただ何事もなく平穏に暮らすことだけを願う男だった。事件というものを好まず、日常生活のきまりを狂わせてしまうような大事件は殊更に嫌っていた。母が収容所に連れ去れらた幼い日や、妻が果物商人と駆け落ちしてしまった青年時代――それらは思い出すだけでひどい不快感に襲われる出来事であり、五十を越えようとするいま、彼のささやかできまりきった日常をおびやかすものは何ひとつないはずだった。
一九八四年、八月のある金曜日の朝、あの鳩の事件が起きるまでは。
「香水」のパトリック・ジュースキント、彼がその記録的な成功のあと、二年後に発表した作品である。「香水」とは違い、こちらはきわめて日常的な世界に生きる初老の男の一昼夜を描いた作品となっている。もちろん、殺人事件などとは縁遠い。
とはいえ、これはもうまったく、「香水」の作者だ、という思い込みからの印象かもしれないが、「感覚」の表現法は見事。どういうわけだかこの話では下の……汚い方向での描写がやけにリアルで、美しい、真っ白な、ぴかぴかに磨いた洗面台に放尿するシーンなどは、ジョナタンとともに身震いしてしまうほどに厭わしく、恥ずかしさを感じながらもほっとしてしまうような。ことがすんだあとに「一度は数に入らない」などと呟きながら徹底的に磨き上げ、少し心が落ち着く場面なども秀逸。もちろん、鳩に関する微に入り細をうがった描写はいうまでもない。
鳩との出会いから歯車の狂った一日を過ごさざるを得なくなったジョナタンの一日。華麗で彩りあざやかな文章世界といった風ではないが、逆に、ある男の一日を丹念に描いているからこその得もいわれぬ感覚世界。とにかく、多くは語らない。ぜひ、手にとって読んでいただきたい。
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