「わたしはおまえたしの一部なんだよ。おまえたちのずっと奥のほうにいるんだよ? どうして何もかもだめなのか、どうして今のようになってしまったのか、それはみんなわたしのせいなんだよ」
「蝿の王」 ウィリアム・ゴールディング(平井正穂訳) 新潮文庫
ときは未来のいつか。大戦のさなか、イギリスから疎開しようとしていた少年たちの乗っていた飛行機が攻撃を受け、南太平洋の孤島に不時着する。手を伸ばせばありあまるほどの果実がたわわに実り、飲むためにも遊ぶためにもちょうどよい清水が湧き、裸で過ごしても凍えることのない、そして彼らに襲いかかる猛獣のなにひとつない楽園……。けれど、獣はいたのだ。彼ら自身の心の中に。
「十五少年漂流記」のアンチパロディともいえるこの作品に出てくる少年たちは、それでも皆、文明社会を背景とし、大人たちの救援を待っていたはずだった。内なる獣に駆り立てられる、そのときまでは。
はじめのうち少年たちの熱狂的な賛同を得て隊長となったラーフは、生活を秩序あるものに保ち、烽火をあげ続けることで救援を待とうとする。しかし、そもそもラーフとは対立しがちであったジャックはみずから組織した狩猟隊を、ラーフに対立する組織にまで育て上げ、楽園の中で自由に暮らす道を選び、他の少年たちにまで呼びかける。
「ぼくが狩りをするときいっしょにきてやりたい者があれば、勝手にきてもかまわない」
肉を食う、ということの誘惑。決められた仕事などなく、自由に遊ぶことへの誘惑。ほとんどの少年がジャックの側についたとき、けれどそれは少年たちの中に眠る獣が目覚めたときでもあった。くりかえされる殺戮。それをとめることのできないラーフの衝撃と哀しみは大きい。
実はわたしはこれの、映画化された作品のほうを先に観た。1990年、イギリスで制作されたその映画は、小説とはまた違った魅力に満ちた作品だったのである。
小説ではラーフとジャックはそれほどはっきりと正反対の人間でもない。ラーフもまた弱く、ジャックもまたラーフに近い部分を持ち。
しかし、映画は違った。
映画におけるラルフ(ラーフ)は秩序を体現している。彼は秩序と法の人であり、少年ながらにして文明社会を体現している。それに対してジャックは野性の人だ。自由と混沌、野生に生きるかれは無秩序であるが、それだけに強烈な魅力を発揮する。そして、ピギー。眼鏡をかけ、でぶで鈍いこの少年は、小説の中ではラーフにさえ鬱陶しがられる存在であるのだが、映画の中でかれが体現しているのは知識。文明社会の側に立つラルフはピギーだけを味方とし、ふたりで孤立していってしまうさまがよく現れている。そしてまた、サイモン。小説の中でもただひとり、獣を内なる心の声だと知る少年であるかれは、映画の中では妖精めいた不思議な魅力で存在する。おそらくかれは無垢なる心、子ども時代、でもあるのかもしれないと思わせるほどに。映画の中ではラルフもジャックも、サイモンにだけは一目おく様子で接している。秩序に従うために、自由に生きるために失ってしまった子ども時代をなつかしみ、慈しむかのようにふたりはサイモンだけはそっとしておいているようにも見えるのだ。サイモンの可愛がっていたカメレオンをジャックの友人であるロジャーが残酷にも殺してしまったとき、一瞬見せたジャックのこわばった表情……それこそ、ジャックが己の子ども時代と痛みをともなった別れをした、その現れではなかったか。
そしてまた、こう考えてくると、映画中でサイモンが、そしてピギーが失われたときに楽園が本格的に崩壊していったこともわかるような気がするのだ。
小説だけでなく、映画もぜひ観てもらいたい。小説の中ではそれほどでもないラーフの魅力を存分に味わってもらいたいのだ。
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