ピエールが嘆いているのは、可能性を秘めた未来が失われたせいではなかった。無駄にした過去、浪費した歳月、つまらぬことに使ってしまった時間、なにも成し遂げることなく、のらくらとすごしてきた日々を嘆いているのだ。
       
   「フレームシフト」ロバート・J・ソウヤー(内田昌之訳) 早川書房

 18歳のピエール・タルディヴェルは、母が死の直前に告白したことにより、自分の本当の父親が別にいることを知った。そして、意を決して実の父親に会いに行ったピエールを待ち受けていたのは、あまりにも悲惨な運命――自分がハンチントン病(ハンチントン舞踏病)の遺伝子を譲り受けているかもしれないということだった。進行性の痴呆や無意味な筋肉の動きを伴うこの病を癒す手段は、いまの世界にはない。底知れぬ絶望の中、ピエールは自殺ではなく、研究に没頭し、自らの名を残すという道を選ぶ。そして、遺伝学に没頭したピエールは、32歳のとき、カナダからカリフォルニア州にあるローレンス=バークレー研究所の研究員となり、バークレー大学で心理学の助教授を務めるモリーと出会った。ある一定の距離内にいる人の発話思考を読みとることのできるモリーにとって、男性との付き合いは苦痛でしかなかったが、モリーには理解することのできないフランス語で思考するピエールとの付き合いは新鮮で、気持ちのよいものだったからだ。ピエールもまた、モリーの明るさによって慰められ、ふたりは結婚を決意する。そして、子どもを持つことのできないピエールの代わりに精子提供を申し出たのは、ピエールの上司でノーベル賞受賞者のブリアン・クリマス博士だった。
 一方、第二次世界大戦中のドイツで、収容所のユダヤ人たちから恐怖のイヴァンと呼ばれ、怖れられていた男を追い続ける特別捜査官アヴィ・マイヤー。取り返しのつかない失敗の後、慎重に、しかしより執念深くなっていたマイヤーがピエールに接触してきたことで、ピエールはクリマスこそが、怪物イヴァンではないかという疑いを抱く。モリーの産む子どもは怪物の子どもなのか。そして生まれた女の子は……
 遺伝子に隠された謎、歴史に隠された謎。ソウヤーらしく、さまざまな謎が絡み合っているが、物語の中心は、お互いを信頼しあう若い夫婦の物語である。やがて訪れる死を見つめながら、それでも互いをいたわりあって日々を過ごす夫婦の姿は切なく美しい。最終章は涙なくして読めないほどに力強い。平等であるということ、平和であることのすばらしさ。ソウヤー作品の中でも一押し。絶対のオススメである。



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