「あの国には何もない、もはや死んだ国だ、日本のことを考えることはない」
「この土地にはなにがあるんだ?」
「すべてがここにはある、生きる喜びのすべて、家族愛と友情と尊敬と誇り、そういったものがある、われわれには敵がいるが、いじめるものやいじめられるものがいない」
「希望の国のエクソダス」 村上龍 文藝春秋
2001年の6月初旬、日本人の少年がパキスタン北西部・アフガニスタンとの国境付近で地雷により負傷した。CNNが提供した短い映像、繰り返し流されたその報道の中で、のちにナマムギと呼ばれることになる少年の、上に引用したことばがきっかけで、全国の中学生たちがいっせいに学校に登校しなくなる。
全国的な動きが起こる以前にその少年を取材に行こうとしていた主人公関口は、同じようにパキスタンを目指していた少年たちのひとり、中村君と飛行機の中で知りあいになる。なぜ、少年たちはパキスタンへと向かおうとしたのか(結果的にそれは阻止される)、ナマムギと呼ばれたパキスタンにいた少年(彼がどうして「ナマムギ」と呼ばれるのかは、読んでもらえばわかる)、彼はどうしてそこにいたのか。大人たちが気づかぬあいだに事態は進行し、都市部を中心に起こった集団不登校は全国規模へと発展し、中村君と、彼の友人、ポンちゃんたちの発した「ナマムギ通信」というインターネットサイトは拡大するだけでなく、ついには日本経済をも動かしていく。
「愛と幻想のファシズム」で、冬二はカリスマ的存在だった。彼がいうことには誰もが耳を傾けたし、暴力的な若者もトウジには従った。だから、今回の話も、他の大人たちがいいようにあしらわれているときに、関口だけが若者の理解者になるのかと、そんな風に思っていた。それはちょっといやだな、と。しかし、そうではない。関口は少年たちの行動に、少年らしい無造作な残酷さや、なにかの欠落、そういうものを感じているし、彼らのことを「わからない」と思っている。わかろうとしている、彼らと対等であろうとしている大人のことを内心でやや軽蔑の念さえ抱いて見ているような、そんなところもある。自分は大人で、彼らは子どもだ。それはどうしようもない溝であり、それを埋めることはかなわない、と関口は理解している。その溝に対する理解があるからこそ……この物語はリアルでおもしろい。
それにしても、どうして「希望の国へのエクソダス」ではないのだろう。これが「希望の国の」であるところに、またひとつ、作者の意図があるようにも感じられてならない。
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