「金塊の中にたくわえられた富は死んだのです。腐って死臭を放っている。本当の富とは、毎朝ベッドから起きあがって仕事に行く人人や、学校で授業を受けて知識を身につける子どもたちがつくりだすのです」
「クリプトノミコン」 ニール・スティーヴンスン(中原尚哉訳) 早川書房
物語は第二次世界大戦の前後と現代において、何人もの人々が日本軍がマニラに隠蔽した金塊をめぐる複雑怪奇な暗号に取り組む姿を織りなしたものである。
主人公のひとり、アメリカ人のローレンス・プリチャード・ウォーターハウスは、プリンストン大学在学中に、同じように数学に興味を持つイギリス人研究者、アラン・マシスン・チューリング、アランの恋人でドイツ人数学者のルディ・フォン・ハッケルヘーバーのふたりに出会う。三人は自転車旅行をしながら数学や暗号について語り合う仲だったが、卒業後はアランとルディ敵味方に分かれ、ローレンスはあまりに頭がよすぎたために知恵遅れだと判定され、アメリカ海軍音楽隊の鉄琴奏者として各地に送られる。
そのころ、アメリカ海兵隊の忠実なる下士官にしてモルヒネ中毒のボビー・シャフトーは、日本陸軍の兵士、後藤から教わった俳句をひねくりまわしながら任務についていた。彼が考えるのは女のこととモルヒネのこと。下士官らしく、つねに上官のいうがままにふるまうこと。そしてシャフトーは、ありえない場所に沈むUボートの中に、大量の金塊と医療セットの中に入ったモルヒネを発見する(彼にとってどちらが重要だったかはいうまでもない)。
およそ半世紀後、ローレンスの孫でネットおたくのランディは、ネット事業のためフィリピン沖で海底電線の敷設を計画するが、その事業を請負ったシャフトー親子からは、もし沈没船や埋蔵金が見つかったら山分けにしようという契約を持ちかけられる。しかも、祖母の遺品を分ける親族会議において、祖父ローレンスが残した数々の暗号解読の秘密、調査記録を発見したランディは、資金難の事業建て直しのために、祖父の思考を追っていくことに……
おもしろい。
たくさんの登場人物たちが時を超えて複雑に絡み合っていて、それが飽きさせない。本筋とは関係ないが、細かい描写で噴き出しそうになるほどおかしな表現も用いられていて、何度も笑い出してしまう部分もある。特に……実は後半、ランディが日本にやってきたあたりの日本の描写は秀逸。例えば、ホテルでのできごと。
怖じ気づくほどかわいらしくて、妙にぱたぱたした着物姿の若い生きものが近づいてきて、ホテルのビジネスセンターにはタイピストが控えているのでご希望ならどうぞといってきた。ランディはできるかぎり丁重に断ったが、それでもまだ丁重さがたりなかったかもしれない。着物姿の生きものはお辞儀をして、声に出さない"はい"という返事をしながら、小股でちょこちょこと退がっていった。
他にも、ランディが"パソコンオタク"の涅槃と呼ばれるアキハバラに来たときのこと。ランディの友人アビは、パソコンオタクとアキハバラをこう説明する。
「しかしほかのさまざまな事例でもそうであるように、日本人はここでも想像を絶する極端な方向へ進んでいる」
こんな風に細かすぎて伝わらない笑いを散りばめながら進む物語だが、最後は思いがけず感動的で胸が熱くなる。
ローカス賞受賞。SF……というよりは、歴史超大作という位置づけだろうと思う。SFが苦手な人にもオススメ。例えば「ロンドン」や「ニューヨーク」のように、長い年月にわたる人々の歴史が楽しかった人には、絶対楽しめると思う。ぜひ読んでもらいたい一作である。
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