わたしは家の中で用事をしているのも好きだったし、外からその家を眺めるのも好きだった。そして、わたしのための部屋が好きだった。
たった二畳の板間をわたしがどんなに愛したか、そのことを書いても、人はおそらくわかってはくれないだろう。
「小さいおうち」 中島京子 文藝春秋
いまやすっかり引退し、静かな老後を過ごす「わたし」、タキは、二年前に『タキおばあちゃんのスーパー家事ブック』という本を出したが、今回、この覚え書を書き始めたのは、出版社の人に頼まれたからというわけではない。出版社が求めているものとは少し違うもの……「わたし」がかつて、終の棲家とひそかに思い定めた、平井家での女中奉公の思い出だ。美しい奥様と、やんちゃな恭一ぼっちゃん。穏やかでやさしい旦那様。タキのノートをひそかに盗み読みしているらしい甥の息子の健史は、戦争中の日本がこんなにのんびりと楽しそうであったはずがないというけれど、事実、タキにとっては、実際に平井家を離れて実家の山形に帰る昭和十九年までは、心が浮き立つように楽しく賑やかな日々であったのだ。
タキの記憶にある平井家での楽しい日々と、戦争中だったのにと茶々を入れる甥の息子、健史とのやりとりを通じて思い出す時事関係の話……が交互に語られるが、なんといっても中心は平井家の奥様の話である。華やかなことが好きで、いつまでもお嬢様のような、やさしく美しい奥様。そんな楽しい日々に、わずかにひびが入ったのは、旦那様の会社でデザインを担当している板倉という青年が訪れてからだった。交わされる視線と、何かを含んでいるかのようなやりとり。秘密の影に、タキの心も揺れる。
物語は最終章で、思いもかけない展開を見せる。この話はミステリでもあったのだ。そう思ってみると、タキの生き方そのものや、最初の主人からタキに語られる女中心得のようなものは、見事の伏線になっている。
第143回直木賞受賞作品。
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