「病気なのかね、リッキー」
 リッキーはかぶりをふった。
「自分を殺さなければならないのだと思います」
                
「精神分析医」 ジョン・カッツェンバック(堀内静子訳)  新潮文庫

 ささやかではあるが自分のオフィスを構え、規則正しい生活を送る精神分析医リッキー。そんな彼の生活は、ある日送られてきた一通の手紙によって一変する。童話の中で自分の名をあてろと王妃に迫った邪悪な小人、ルンペルシュティルツキンの名を語った送り手が、童話と同じように自分の名をあてろ……さもなければ死ね、とリッキーに迫ってきたのだ。脅迫者はそれを証すために、リッキーの親戚を脅し、リッキーの元にも謎の人物たちを送り込んでくる。築き上げた財産も名誉も、すべてを偽りによって剥ぎとられ、放り出されてしまうリッキー。彼は与えられた十五日の間に邪悪な脅迫者の名を知ることはできるのか。それとも、残された道は死しかないのか。
 上巻と下巻とで、驚くほど中身に差のある小説。下巻裏表紙の粗筋を読めばわかることだから書いてしまうが、上巻のラストでリッキーが湖にむかって足を踏み出したときには、一瞬これが下巻かと思ってしまったほど。だが、死を選ぶほどに追いつめられたリッキーの反撃はそこから始まるのだ。築き上げてきた名声も、証明できる経歴も家も金も、何もかもを失い、ただ無名の一人として生きようとしたとき、そこには強さが生まれる。失うものが大きい者のほうが弱い。その意味で、リッキーは限りなく強くなったからだ。
 上巻では、次々に襲い掛かる不幸のスピード感とリッキーの焦燥、下巻では復讐に燃えるリッキーの地道な努力……ひとつの小説で複数の本を読んだときのようなおもしろさが味わえる。
 自分は誰かのために死ぬことはできるのか。すべてを失ってなおも生き続けようと思えるのか。
 エンターテイメント作品でありながら、突きつけてくるものは、重い。



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