「塁のこと何でも知りたいのよ」
「ここにいるじゃない。それ以上何がほしいの?」
            
 「白い薔薇の淵まで」 中山可穂  集英社

 深夜の青山ブックセンター。折りしも外は雨。好きな評論家が絶賛していた作品、しかも滅多な書店では見つからなかったそれを、飲み会の帰りに発見して思わず手にとる。が、値段のことなどで躊躇し、棚に戻したとき、隣に立っていた知らない女性が「買わないんですか」と声を掛けてくるのだ。成り行きで思い直して本を手にし外に出ると、さっきの女性が傘をさしかけてきてくれ、しかもその傘を貸してくれるという。押し問答の末、連絡先を書いてもらおうとするがペンも紙もない。仕方なく買ったばかりの本と口紅を差し出すと、彼女は見返しのところに電話番号と名前を書いた。その文字が作家と同じ名前であったことに気づくのは終電の中だ……。
 いまどきの言葉でいえば、ありえない。くらりと酔わされてしまう、信じられないこの設定。 これほどまでにドラマティックな出会いをした恋愛小説が近年あっただろうか。――わたしがこの作品をススメるとき、必ず使うフレーズである(笑)。とはいえ、「わたし」、クーチにとって、塁のような人を愛してしまったのは嵐に巻き込まれたようなものだ。「わたしと猫と、どっちが好きなの」と問えば「猫だよ」とあっさりいってのける。他の女の香水の匂いをさせ、身体中に赤い痣をつけて平気で帰ってくる。自分のことはほとんど語らない。なのに嫉妬深く、ついうっかり逆鱗に触れれば、すばやく姿を消してしまう。そして、未練を堪え、塁とは別れたほうがいい、と自分を納得させかけたころ、
「半熟卵ってさ、何分ゆでればいいんだっけ?」
 名乗りもせず、時候の挨拶もせず、いきなりの大ボケをかます。
 こんな女を――こんな人を愛してしまったのは、はたして不幸なのか幸福なのか。少なくとも幸福ではないとは思うが、脳髄の裏側に植えた白い薔薇が何度も咲く、そんな恋は塁としかできない。その瞬間だけがすべてである、そんなぎりぎりの恋愛。どこか羨ましいほどに激しく熱い。
山本周五郎賞受賞作品。

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