ごく普通にあるもの、毎日飽きるほど見ている風景、親しい友人、たんに今見えている、感じているそれら。それらの<現実>という表皮がぴりぴりと剥がれ落ちていくような気がした。
            
「偏執の芳香(アロマパラノイド)」 牧野修 アスキー

 物語は1982年、パリから始まる。キャロと名乗る日本人調香師、伊能宿禰は、ひとの感情を左右する香りを生み出し、その香りによって世界を支配するという妄想にかられ、殺人を繰り返していた。
 それから約20年後、現在。ノンフィクションライターの八辻由紀子は、友人でもあり、仕事相手でもある編集者の小来栖久子から、コンタクティーと名乗る人々の取材を提案される。UFOとであって宇宙人と連絡を取っている彼らの取材は気の進むものではなかったが、コンタクティーとの仲介をとってくれた瀬野は思いがけないほどの常識人で、取材そのものはそれほど厄介なものにはならなかった。だが、瀬野から渡されたコンタクティーたち必読の書とされる限定本『レビアタンの顎』は、香りにとりつかれた伊能という男の独善的で不気味な精神世界を描いたものであり、その本を手にしたころから、由紀子の周囲に不気味な出来事が頻発する。二ヶ月前に死んだはずの母からの電話。ストーカーまがいの男。意味不明な警告文。しかも、どうやら家中に盗聴器が仕掛けられ、複数の人間が由紀子と息子の毅を監視しているらしい。……いったいなぜ? そして誰が?
 ごくあたりまえの日常が歪んでいく。さすが牧野ワールド。ただ連続殺人に巻き込まれるとか、そういう話ではないのである。妄想が妄想に駆逐され、現実はその重みを失い、確かな己の立地点を探すためには、我から妄想の世界に飛び込まねばならないという矛盾。
 出だしが「香水」を思わせるだけに、これは「香水」読者にはぜひ読んでいただきたい作品である。同じ天才的な調香師(しかも殺人犯)を描いても、これだけ違うか、という面白さを味わうことができるのは間違いない。驚愕のラストシーンも必見。



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